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第9話

「……お邪魔します」 「どうぞ」  撮影終わり、そこそこ遅い時間に送ってもらって辿り着いた真神くんの家はセキュリティのしっかりしたマンションで、エレベーターの時間が長く感じるくらいの上階だった。  なんでもセキュリティだけはちゃんとしたところじゃないと危ないからと事務所が借りてくれたところらしい。人気のあるアルファ俳優の場合、それぐらい用心した方がいいのだろう。  ……ただ、本人がオメガを招いていちゃ意味がないとは思うけど。 「そこがトイレでそっちが風呂。そこがゲストルームなんで好きに使ってください」  適当な指差し案内とともに廊下を通り、ドアを開けてリビングへ。 「キッチンはあんまり使ってないんで、使うんだったら適当にやってください」  オシャレなオープンカウンターのキッチンは、それなりに物は揃っているけれど確かにあまり使っていない綺麗さだ。まるでセットみたいな作り。リビングにある家具もモノトーンで統一されていてひたすらオシャレ。当然夜景も綺麗に見える。ここだけで一本ドラマが撮れそうだ。  羨ましいというよりかはひたすら別世界で、ぼーっと周りを見回してしまう。 「そんなところに突っ立ってないで座りませんか。荷物そこら辺に置いていいんで」  おのぼりさんスタイルで立ち尽くす俺に肩をすくめ、さっさとくつろぐ体勢の家主が手招きをする。  落ち着いたグレーのローソファーは、柔らかすぎずしっかりと体を受け止めてくれて座り心地が最高にいい。真正面にはなんインチかわからないけれどとにかく大きなテレビ。ここに座ってのんびり映画でも見られたら楽しいだろうな。 「で」  ……そんなことを考えて油断していた俺が悪い。  どうして真神くんとソファーに座るということに対してなにも思わなかったのか。 「一体どういうことですか?」  その後悔は、その場にあっさりと押し倒されてからすることになった。  心地よいソファーに体を倒され、覆いかぶさる真神くんの顔を見上げながら焦って言葉を探す。 「説明しないならこのまますんごいキスしますけど」 「せ、説明って、俺は別になにも」 「この前ちゃんとできなかったんで、腰が抜けるくらいディープなのを。というかそのまま終わらせる気ないですけど」 「……なにを話したらいいんですか」  身に危険しか感じないとんでもない脅迫にすぐに降参して両手を上げる。  二人きりになるのは危ないとわかっていたのに、どうしてここで油断するんだ間抜け。 「身分を隠して俺と番になろうとしたっていうのは、俺のことをハメようとしたってことですか?」 「違います。あれは本当、酔っ払ってて。色んなことにむしゃくしゃしてて、本気でもう二度と会わないつもりでやらかしたっていうか、冗談のつもりだったというか……」 「因幡皐さんはベータだって聞いてましたけど、皐さんが『オメガ』っていうのは、マジですか」 「……マジです」  証拠はないんだしあの時は酔っていたからとここで嘘をつくこともできたけど、そもそも無防備に自分でバラしたんだから観念するしかない。むしろ今さらそんなこと言っても納得してもらえるはずはないだろう。  なによりさらりと切り替えられた「皐さん」呼びの圧が怖い。  マネージャーにさえ黙っていたのに、まさか酔いとヤケで口を滑らせたことがこんなことになろうとは。 「どうやって今まで誤魔化してたんですか? 事務所は?」  とりあえず話すからどいてくださいと体を押しのけると、なんとか元の位置に戻ってくれてから俺も起き上がる。  そして改めて姿勢を正して座って、真神くんへと気持ちを向かい合わせる。気分は告解だ。 「事務所にも言ってない。抑制剤を飲んでいればフェロモンは抑えられるから、言わなきゃバレないし、言ったらまずアルファとの共演は無理。そうなったらどこの現場も行けなくなっちゃうよ。今時アルファがいないところなんてほぼないから」 「でも抑制剤飲んでてもダメとか言ってませんでした?」  よく覚えてるなこの人、と変なところで感心する。酔っ払いの愚痴をいちいち覚えてるなんて、記憶力いいんだな。 「フェロモンは抑えられる分、副作用でひどい頭痛とか吐き気があって、本調子じゃなくなるのは困ってる。でも、それだけじゃオメガだとはわからないから」 「誰かとセックスして発散するとかで飲まないわけにはいかないんですか?」  背もたれに腕をかけ、こちらを向く真神くんの質問はどうにも直球だ。  回りくどくないのは、こういうとき少しありがたい。 「発散なんかできないよ。酔いみたいに醒めるものじゃないんだ。……あの時の俺は別人みたいなもんだから。理性なんてぶっ飛んでるから薬飲んでなきゃとてもじゃないけど人には会えないよ」  仕事がなくて一人の時はできるだけ抑制剤を飲みたくないけれど、そうするとヒートのたびにオメガであることを思い知らされて、恥ずかしさで泣きたくなる。  そして薬を飲んでは今度は具合の悪さで自分の性を恨むはめになるんだ。それでこんなに苦しんでいるのに、片やアルファは、と恨んでしまう気持ちも少しはわかってほしい。  どうして同じ少数派なのに、アルファはなににでも恵まれているのか。 「それじゃあ、やっぱり番になるのが手っ取り早いってわけですね」  そして選択肢が多いゆえに、難しい手段も平気で選ぶ。どこに手っ取り早さを求めて番になる人間がいるのか。 「皐さん、次のヒートっていつですか?」 「いやあの、その話忘れてくれないかな?」 「……噛んでくれる他の男見つけました?」 「そうじゃなくて、よく考えたらうなじに噛み跡なんてあったら自分からオメガだってバラすようなものだし、真神くんを巻き込んだのも間違ってた。ごめんなさい」  実は俺オメガでした、騙しててすいません、でも番がいるから気にしないで今まで通り使ってください。なんてカミングアウトが許されるだろうか。  たとえ許されたとして、だったら番の相手は誰という話にならないか?  そんなときに巻き込んでいい相手じゃないのはこの数日で十分わかった。むしろあのときに番にならなかったのが幸運だと思えるくらい。 「……柴さんいるじゃないですか。あの人長いでしょ、この業界。しかも首輪しててわかりやすいオメガで。あの人が平気なんだから大丈夫なんじゃないですか、皐さんがオメガだってわかっても」  結局はいくら語ったところで他人事だからか、真神くんは簡単にそんなことを言う。  そりゃ柴さんはオメガだ。でもそれはかなり特殊な例であり、この場合には当てはまらない。 「柴さんは昔からしっかり番がいるし、めちゃくちゃ仕事できるし。というかそもそもの話、番っていうのは特別思い合っている二人じゃなきゃいけないわけで」 「俺じゃあ不満だと」 「だからそういうんじゃなくてそもそもの認識の違いが」 「別に良くないですか? 当人たちがそれでいいって言うんだから。結婚しようっていうわけじゃないんだし」 「ダメでしょ。特に真神くんは」  あの時は、どうせもう二度と会わない知らない人だし、売れっ子だしと迷惑かけたっていいやというヤケの気持ちが強かった。歯型が残るオメガと違って、どうせアルファはわからないんだからいいじゃん、と。  でも今はそういうわけにはいかない。いくら真神くん自身が軽く考えていようと、俺が得しようと、それとこれとは別の話だ。 「本当に、あの時は悪かったよ。全部忘れてください。ヒートが近くなったら出ていくし、迷惑はかけないようにするから。そしてお願いだから黙っててください。演技を取り上げられたら困るんです」  親に劇団に入れられたばかりの頃は、周りに喜んでもらうために「よく言うことを聞く子供」でいた。言われた通り色んな役をやって、求められる子役になって、でも完璧すぎるといけないから子供っぽさも見せて。  その時は演技の楽しさはよくわからなかったけれど、徐々に気づき始めたタイミングで自分がオメガだとわかって失って。  役を、ストーリーを演じない日々を過ごし続けてやっと、俺はもう一度ちゃんとやってみたいって思ったんだ。  戻ってきた当初は全然だったけど、ようやく認めてくれる人も多くなってきて、色んな現場に呼ばれるようになって、こうやって大きな役まで辿り着いたのに。それをまたなくしたくない。 「……まあ、バラされたら困る秘密ですよね」  とにかくオメガは生きづらい。そうであることだけで差別や誤解を受ける人も見ているし、あれほど場に馴染んでいる柴さんだって最初は大変だったと言っていた。どこもそうだ。  そして正直オメガならばなにをしてもいいと考える奴だっている。  番のいる柴さんが首輪までしているのは自衛のためもあるんだ。別にそこを噛んだからって上書きされるわけではないけれど、それでも試そうとする悪い輩がいるから。だから余計、俺は首輪はできない。それでオメガだと知られることはできないんだ。  そうやってソファーの上に正座をして頼み込む俺を見つめたまま考え込んだ真神くんは、低い声で呟く。 「黙ってたらなにしてくれます? まあセオリーは『体で払う』、ですよね」  そういえばこの人もうなじを噛むことに興奮していたな、という思い出したくない記憶が蘇って、隠れてため息をついてしまった。その前に普通にナンパされたんだった。  アルファはこれだから……。 「真神くん」 「とりあえず台本の読み合わせですかね」 「……え?」  どんないやらしい変な要求をされるのか軽蔑しつつ名前を呼ぶ俺をよそに、真神くんは腕組みをして考えをめぐらすように斜め上を見る。 「実際声に出した方がセリフは覚えやすいし、相手がいないと文字の感情はわかりにくいし」  いや、その気持ちはよくわかるし、今は大きな仕事の真っ最中で、この人は主演で。 「……なんか、ごめん」  変なことを考えていた自分がとても情けなく思えて、素直に謝った。  この件に関しては、誤解して、本当に申し訳ありませんでした。

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