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第19話

「どうする? 悪い話じゃないと思うんだけど。少なくとも、まだ会ったばかりの真神くんと適当な感じで番になるよりかはマシな提案だと思うよ」  俺が過剰反応しないようにか、ゆっくりと近づいてきた八尋さんがベッドに座る。それから俺の頬にそっと触れて、窺うように目を覗き込んでくる。 「俺のこと、まだ恐い?」 「恐くないですけど……いや、正直ちょっとはまだ恐いですけど、そういうんじゃなくて。俺、八尋さんとはやっぱりいい先輩後輩の関係でいたいです。……前のあれは、本当に事故だったから」  恐いのは八尋さん自身というよりかは一緒にいることをきっかけとしてまた理性が利かなくなったらどうしようという恐さだ。大事なことを全部吹き飛ばしてオメガの本能だけですべてを台無しにしてしまうんじゃないかと思うと、触れられるのも恐い。  だからその手からさりげなく距離を取ろうとしたら、体重をかけられて体を倒された。八尋さんは横に座ったまま、今度は上から俺の顔を覗き込む。 「俺はウサちゃんのこと好きだよ。可愛い弟みたいに思っているし、正直あの日あそこにいたのが俺で良かったって思ってる。ウサちゃんにとっては誰だって同じかもしれないけどね」  そう言いながら、八尋さんは俺に覆いかぶさりそのまま額にキスを落とした。セクシャルなものには思えなかったけれど、この体勢で冷静ではいられない。  「ま、待ってください。今したって番にはなれないんですよ?」 「そりゃそうだよ。ヒート状態じゃなきゃ」 「……ですよね」  当たり前のことを当たり前に言われただけだけど、微妙にぐさりと来た。  それに気づかないでやっちゃったことのせいで、今のこの変な状況があるわけで。それをなに言ってんのって顔で言われると、自分の愚かさが恨めしくなる。 「でも、番っていうのはそういうことでしょう? 体の相性は大事だよ。番になったとしてもヒートが完全になくなるわけじゃないオメガとしては、ちゃんと気持ちよくなれる相手の方がいいだろうし。その点、俺たちの相性がいいのは最初の時点で確かめられてるしね。不本意ながら」  朦朧として覚えていないけれど、何度も求めてしまったのは記憶に残っている。初めての行為で痛みを感じないどころじゃなかったのは、もしかしたらそういうこともあるのかもしれない。だけど。 「さて、どうする? 実際どう思うか、このまま確かめてみる?」  本当ならとてもいい条件なのかもしれないけれど、見上げる体勢の八尋さんを見て思うのは一つ。  むしろここまでしてくれたからはっきりと答えが出た。 「……八尋さんとは番になれません」 「オッケー、わかった。じゃあ真神くんはどう? 本人はいいって言ってるんでしょ?」  驚くほどあっさりと引いた八尋さんに返す刀で気まずい名前を出され、クールに見えるあの顔を思い出す。初恋の人の代わりと言われた憎らしい顔。それと笑った時のちょっと子供っぽい顔。 「……真神くんは、ちゃんと本来の意味での番を見つけた方がいいと思うし、なんだかんだ柴さんの方が気になってるみたいだし」 「あー、そっちの心配はしなくていいかな」  俺の上からすんなりと退きながら、八尋さんはなんだか遠い目をして頬を掻いた。 「あの人に手出したら、そりゃあもう恐いダンナが出てくるから。とてもじゃないけど真神くんじゃ敵わない。経験談」 「……え?」  さらりと、だけどとんでもない事実を織り交ぜて答えられた理由は、すぐには飲み込めないものだった。  あの人、は柴さん。その番相手がダンナ。どうやらその人が恐い人らしいということはわかったけど、経験談……? 「ちょっと待ってください、それ聞いてない!」 「俺の話はいいよ。とにかく無理だから万が一はない」  経験談ということは試したってことで、それはつまり柴さんの番相手を怒らせるような真似をしたということ。八尋さんが、いつ? しかも柴さんに? そんなの一切聞いたことがない。  当然問い詰めたい俺から逃げるようにベッドを下りた八尋さんは、両手を上げて入り口の方へ避難する。もう用は済ませたとばかりに撤退の姿勢だ。  まだまだ聞きたいことはあるのに。 「そういうわけだから、そういうところから素直になっていけばいいんじゃないかって俺は思うよ。あのシーンもそういう感じでしょ? 愛しい気持ちの内面をそのまま隠さず見せるの、ウサちゃんにはちょっと難しいかな?」 「俺別に真神くんのこと好きじゃ……ていうか今はそんな話してる時じゃないと思うんですけど」 「大事だよ。ごちゃごちゃの頭のままじゃなにやっても上手くいかないし、ウサちゃんのそれは全部に関わってくることなんだから。……あと、本音を隠してるならウサちゃんは嘘が下手だし、本当にそう思ってるならちょっと心配になるくらい鈍い」  まだ帰さないぞと後を追う俺の額に人差し指を突き付け留めると、八尋さんはさっさとまとめに入った。  そもそも俺は役のことで悩んでいてそれを相談に乗ってもらっていたはずなのに、なんで真神くんの話になっているんだ。体よく流された気がする。 「逃げられた俺から見れば、ウサちゃんがアルファを恐がらないで傍にいるってのが十分答えなんだけどね」 「八尋さんって案外恋愛脳なんですね」  恐がらなければ好きだなんて、人間そんな簡単なものじゃない。なにより真神くん相手にそんなこと考えたことがない。  真神くんとの間の、番になるならないは好きとか嫌いとかそういうものを考慮しないもので、だからもし番になったとしても真神くんが誰を好きになっても自由で。  たとえ本当に柴さんのことを好きだったとしても俺は……もやもやしないのは、ちょっと無理かもしれないけど、それは恋愛感情とかじゃないはず。 「難しく考え込んでもいいけど、大抵はそういう答えってシンプルだと思うんだけどなぁ。なにより、役の気持ちももちろん大事だけど、ちゃんと自分の気持ちを認めてあげるのも大事だよ」  言うだけ言って、八尋さんは満足げに部屋を出る。 「じゃあね、可愛い俺のウサちゃん」 「人の気持ち乱すだけ乱しといて帰るの卑怯ですよ!」  去り際まで無駄にかっこよく決めて、足の長さを生かしてさっさと廊下を歩いて行ってしまった。八尋さんの泊まっている部屋とは階が違うのに、わざわざ来てなにをめちゃくちゃにしてくれてんだあの人。  ただでさえでかい悩み事があるのに、それを解決するどころか増やして帰っていくなんてなんて先輩だ。  はあとため息をついてドアを閉めようとして、ふと気配を感じてドアの陰を覗き込んだらその向こうに真神くんがいた。 「……真神くん、なにしてんの」  驚きすぎてしばし立ち尽くしてしまったけれど、八尋さん同様階が違うはずの真神くんがなんでここにいるんだ。  とりあえず答えを待って見つめてみれば、さっきの八尋さんとは対照的に不機嫌顔を返された。 「悩んでんのかと思ったら結構余裕みたいですね」 「悩んでるからヒントをもらってたんだよ。それよりなんの用?」  どうやら俺の部屋を訪ねようとして、今の場面に出くわしたらしい。なぜか俺と八尋さんの関係を勘ぐっているようだけど、探って楽しい甘い関係なんかじゃないんだ。いちいち突っかかってくるのはやめてほしい。それとも意外と真神くんも恋愛脳なのだろうか。 「……ちょっと、明日連れてきたいとこがあるんですけど」 「明日って、朝?」 「午後までには帰ってこれます。朝迎えに来るんで用意しておいてください」  最初から俺の都合は聞く気がないのか、言うだけ言ってこちらも帰って行ってしまった。アルファは勝手だ。  明日は昼からの撮影で、午前中はちょっとした撮休になっている。だから時間があるといえばあるんだけど、まさかこんな風に予定を入れられるとは思わなかった。 「これでも悩んでるんだけどなぁ」  できない自分にへこむ暇をまったく与えてくれない二人に対して、まったくこれだからアルファは、と嘆けるくらいには、なるほど確かに余裕があるのかなと少しだけ笑えた。

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