8 / 31

そらくんといたいけど〈累目線〉

 ――『わぁ、るいくんのおめめ、おそらのいろみたいですごくきれいだね』  その瞬間、累は空に恋をした。  まるで太陽の光を溶かし込んだような明るい瞳に、一瞬で囚われた。      +  累の祖母が入院することになり、それまで通っていた私立幼稚園から、『ほしぞら』保育園へ移ったのは四歳の頃だった。その保育園であれば、累が夜遅くまで安全に過ごすことができるだろうと、父親が判断したためだ。  多忙な両親の代わりに、ずっと累のそばにいてくれた祖母が倒れてしまったことも悲しかったし、なかなか病院から戻ってこないことにも不安を感じていた。母親は仕事で海外に出かけてしまうと長く帰ってこない上、父親もまた、仕事と自分の母親の世話で忙しく、累は保育園に任されっぱなしで……。  寂しくて、不安で、怒りさえ感じていた。このままずっと、誰も迎えにきてくれなかったらどうしようと思うと、泣きたくなった。  幼稚園にいた大人しい子どもたちとは違い、保育園の子どもたちは皆活発で、遠慮がなくて、始めはひどく驚いたものだった。しかもそんな子どもたちと、朝から晩までずっと一緒に過ごすのだ。ひとりっこの累にはその騒がしさがひどく煩わしく、脅かされるような気持ちがしていた。  加えて累の容姿が園の中でひときわ目立っていたこともあって、物珍しさに近づいてくる子どもたちに苛立ちさえ感じていた。  自分よりも大きな子どもたちからは『生意気』だと言われ、同じ年の子どもたちからは『怖い』と言って避けられた。たくさんの子どもたちがいる中だというのに、累はとても孤独だった。  そんな時、空が声をかけてくれたのだ。  騒がしくて目立つタイプでもなかったし、女の子と一緒にいることの多い空だ。そのため空の存在は、それまであまり気にしたことがなかった。  だが、園庭の隅にある花壇に座って、ぼんやりと青空を見上げていた累のもとへ、空は突然現れた。ひらひらと軽やかに宙を舞う白い蝶を追いかけて、累のもとへ。 「るいくん、あそばないの?」 「……あそばない。けんかになっちゃうから」 「ふうん。じゃあ、ぼくとあそぶ? いまねぇ、ちょうちょつかまえようとおもってたの」 「ちょうちょ……」  そう言って、空はすとんと累の隣に腰を下ろした。そして、ぼんやりと雲の流れを目で追っていた累の瞳の色を見て、空はこう言ったのだ。 「わぁ、るいくんのおめめ、おそらのいろみたいですごくきれいだね」 「……えっ?」  空はそう言って、累の瞳をじっと見つめた。  小さな身体、小さな顔に、大きな目。  空の瞳の色は色彩が淡く、澄んでいる。キラキラ光るきれいなものを、めいっぱいに閉じ込めている宝石のように、累には見えた。  ――きれい……。  累もまた、しばらく空の瞳に身惚れていた。すると空はにっこり笑って、こう言った。 「おれのなまえもねぇ、そらっていうの。いっしょだね」 「そら……くん?」 「そーだよぉ。ねぇ、ちょうちょつかまえられる?」 「う……うん!! つかまえるよ!」  その瞬間から、空のためなら何でもしよう、何でもしてあげたいと思うようになった。  空が笑ってくれると嬉しくて、一緒にいるのが楽しくて、長時間の保育園生活もまるで苦ではなくなった。だが、その気持ちが行きすぎて、空と遊びたくて近づいてくる他の子どもたちを邪険にしたり、『おふろタイム』で空の裸を見るたびに、触ってみたいという気持ちが抑えられなくなってしまった。  自分よりずっと小さな身体。白くて、つるんとした肌がすごくかわいい。細っこい手足も、頼りない首筋も、小さな性器も何もかもがいじらしくて……。  気づけば累は、洗い場にいる空のとなりにぴったりとくっついて、食い入るように空の身体を見つめていた。  服を取り払った空の肌はやっぱりきれいで、濡れた肌は柔らかそうで、うっとりするほどに可愛くて――  空の表情がひきつって「え、な……なに?」と怯えた声を出していたことに、累は気づくことができなかった。気づけば累は、空の脇腹や腰のあたりに手を伸ばし、柔肌に触れていた。  そして、股座のほうへ伸びた手が、空のそれに触れてしまった瞬間、「いやだよぉ!!」と叫ぶ空の声が、耳に鋭く突き刺さり――  わんわんと泣いている空の声が浴室に響き渡る中、累はようやく我に返った。  空は、累の腕を振り払おうと身をよじった拍子に転んでしまい、累もまた、己のしでかしてしまった行動に驚くあまり、身体のバランスを立て直すことができなかった。  初めて見た空の泣き顔。  それは他でもない、自分が引き起こした愚かな行動のせいだった。  空を泣かせた。怪我をさせてしまった。一番大好きな空のことを、傷つけてしまった――  もう絶対に、空がいやがることはしないと心に誓った。空を守りたいと思っていた自分が、まさか加害者になってしまうなんて思ってもいなかったからだ。  その一件以降、累はこれまで以上に己を律するようになった。そうすると、自然と周りの子どもたちとの諍いも減り、『るいくんっておとなっぽいね』などと女の子から優しくされるようになったりもした。  一番救いだったのは、空が累の謝罪を受け入れてくれたことだ。  翌週、頭に小さな湿布を貼り付けて保育園に現れた空に、累は泣きながら『ごめんなさい』と謝った。そんな累を見上げて、空はにっこりと笑ってくれた。そして、『ううん、いいよぉ』と許してくれたのだ。  優しくて、かわいい空が大好きだ。  これからもずっと、空の笑顔のそばにいたい。そのために、何を頑張れば良いだろうか……累は最近、そんなことばかり考えている。  そこで思いついたのが―― 「いっせーさん、こんばんは」 「あっ、累くん……こんばんは。今日はお泊まり?」 「いいえ、よなかにむかえにくるって、おとうさんがいってました」 「あ……そっか。お父さん、お忙しいんだね」  毎晩空を連れて帰ってしまう壱成のことを、一時はかなり恨めしく思っていた累である。    空と一緒に食べる夕飯、空と一緒に入るお風呂、空と一緒に眠る夜――どんなに寂しい夜でも、空がいてくれるから楽しかったし、ほっこり温かい気持ちになれた。  たとえ朝目覚めた時に空が帰宅してしまっていても、またすぐに会えるのだと思えば、多忙すぎる両親に放っておかれても平気だったのだ。それなのに……。  累にとって壱成は、突然現れたあやしい男だ。  だが、空は壱成が大好きなようだし、いつも累に優しく微笑みかけてくれる大人でもある。ここはひとつ、壱成とも仲良くなっておいた方がいいのかもしれない――と、子ども心に、累はそう思い始めていた。 「そらくん、いまトイレにいってるよ」 「あ、そっか。教えてくれてありがとう」  そう言ってにっこり笑う壱成は、どこかホッとしたような表情である。  これまでついついツンケンしてしまっていたが、微笑みかけられるのは嬉しいものだ。『今夜のご飯、美味しかった?』とか『おかあさんのバイオリン、すごいんだってね』と話しかけてくる壱成を相手に、累はもじもじしながら返事をしていた。  すると、トイレから戻ってきた空が、壱成を見て顔を輝かせる。 「いっせー! もうきてたのぉ!?」 「あ、空くん。ただいま」 「おかえりぃ〜〜!」  自分にこそ向けて欲しいキラキラした愛らしい満面の笑みで、空が壱成に飛びついてゆく。両手を広げて空を抱きとめる壱成の表情もまた愛おしげで――壱成に芽生えかけていた『親しみ』レベルが、ススス〜と下がってゆく。 「ねぇいっせー、きょうもおふろにぶくぶくのやつ、いれよーねぇ」 「ぶくぶく? ああ、彩人がもらってきた泡風呂か。うん、いいよ」 「わーい! ねぇるい、しってるー? おふろのなかでねぇ、ふわふわのあわ、いーっぱいつくれるんだよぉ」 「へ、へぇ……いいね……」  ――いっせーさんと、そらくん……これから、おふろでたのしくあそぶんだ……。ぼくはそらくんのいないおふろタイムをすごさなきゃいけないのに、いっせーさんそらくんと、あわあわしたりぶくぶくしたりするんだ……へぇ〜……。  すっぽんぽんの白い肌の上に、真っ白な白い泡。まるで天使の羽のようにかわいいのだろう。たっぷりの泡を頭や鼻先に乗せて楽しげに笑う空を、これからこの男は独り占めするのかと想像すると……。  ――う、う、う、うらやましいよぉ……っ……!! 「じゃあ累くん、俺たちは帰る……って、あれ……さっきまでニコニコしてたのに……」  さっきとは打って変わってスンとした表情になっている累を見て、壱成がうろたえはじめた。累はブスッとした声で、「いいですねあわぶろ、へー、いいですねたのしそうで」と言い、空にだけにっこり笑顔を見せる。 「じゃあまたあしたね、そらくん。あしたもいっぱいおみずあそびしようね」 「うん! じゃあね、ばいばーい」 「ばいばい」  引きつった笑みを浮かべる壱成と手を繋ぎ、空が『ほしぞら』から帰ってゆく。  その様子を保育室から見送りながら、累は「ハァァァ…………」と重たいため息をついた。 「どうしたの累くん、重々しいため息なんかついちゃって」  とそこへ、あいこ先生が歩み寄ってきた。優しくて頼もしい先生なので、累もあいこ先生のことは信頼している。 「……ううん。そらくんね、いっせーさんとあわぶろにはいるんだって。たのしーんだって、あわぶろ」 「ア゛っ……あわ、ぶろ……ですって……!?」 「? どうしたの?」  突然くわっと目を見開くあいこ先生に若干引きつつ、累は小さく頷いた。 「いいなぁ、ぼくもそらくんとあわぶろしたいなぁ。だってたのしそうだし、ふわふわのあわ、そらくんすっごくにあいそうなんだもん」 「ゴブッ…………そ、そそ、そうだね……、かわいいだろうし、たのしそうだね……うん」 「ねー、こんどのおふろタイム、ほしぞらでもあわぶろしよーよ。ねぇー」 「い、いやいや……ぬるぬるで滑るからね、泡ってね。危ないからちょっと難しいかなぁ」 「なーんだ、つまんないのー」  窓辺で頬杖をつく累の肩をぽんぽんと叩き、あいこ先生は「まぁ、園長先生に聞いてみとくね」と言ってくれた。  そして去り際に小さな声でブツブツと「泡風呂って……すごい、すごい……泡風呂の中でシャンパンパーティ……」と呟いていたが、難しいので累にはよく分からなかった。 「つぎのおとまり、いつかなー……あーあ、つまんないのぉ……」  空と壱成の姿がすっかり見えなくなっても、累はしばらく夜の園庭を見つめていた。 『そらくんといたいけど』 おしまい

ともだちにシェアしよう!