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第16話

 ◆◆◆    半日や一日の休みを挟みながら渡瀬が予約を入れていた当日が訪れ、市内周辺の提携ラブホテルではなく、品川にあるグレードの高いホテルの一室が取られていた。都内に多数乱立する高級ホテルは知っていたが、利用する機会はあまりない。  一応の嗜みとして体のシルエットが際立つ、細身のスーツを纏った。身近なスーツ姿のようにかっちりとしたスタイルを真似るつもりはなかったのでラフさを滲ませるナロータイを組み合わせる。ファッション誌の専属モデルとして主に活動した高校時代から歳を重ねているとは言えども、顔の造りはたいして変わっていない。似たような風貌や髪型の若者が犇めく場所で過剰に意識する必要はないかもしれないが、習慣となっているサングラスだけはかけている。店舗側から渡される道具一式が入った鞄だけが何だか浮いていた。  スタイリッシュな造りのホテル。  その豪奢な入り口を通り、絢爛な季節の生け花があちらこちらに飾られた広いロビーを闊歩していく。そんなに置いてどうするのかと不思議に思うほどソファとテーブルのセットが空間を埋めていた。それらを横目にエレベーターのボタンを押して乗り込む。予定の階はほとんど最上階に近く、葵は柳眉を微かに歪めた。  さて――、先生は何を考えているのか。  政治行政に関しては新聞とニュースで聞き齧る程度の知識しか持ち合わせていないが、ひょっとするとコンサルティング業界で名声が高まったのかもしれない。  毛足の長い絨毯に靴音が吸い込まれる。目的の部屋番号の前で足を止めると、かけていたサングラスを外して胸のポケットに仕舞った。  見知った人物に会うというのに、場所が異なれば初対面のような新鮮さが湧く。  インターホンを押す。すぐに開いた扉から顔を見せた渡瀬は、何も変わらない快活な笑みを見せた。つられて葵も微笑み、広げられた両腕の中に身を寄せ、抱き締め返した。  だが、そこまでだった。  室内に入るようにと促され、足を踏み入れる。予想通り、そこには自宅のマンションと似通う間取りが展開していた。さすがにマンションでここまでの高さはない。  目線で室内を見回しながらリビングの方を向くと、若い男性が脚を組み、ゆったりとソファに座っていた。  酷く見覚えがある。  知らないはずだが、記憶が知っていると警告していた。 「あの、彼は?」 「ああ、……実は仕事上の酒の席でつい君の話をしてしまってね。興味があるからと言うから代理で指名させてもらったんだ。騙してしまってすまないが、今日は私の代わりに彼とすごして欲しい」  若者同士、話も合うだろう。と言い残し、渡瀬は柔い雰囲気を纏う彼の方へと行ってしまった。  基本的に新規の客は店舗内でのみとなるが、なるほど、渡瀬が名乗れば受付も出張サービスを了承する。もしもここで断れば、もう二度と会いに来ないかもしれない。  新規もリピーターもすることと言ったら同じなのだ。何を今更。  渡瀬はどうやら留まる気はないらしい。  上品な雰囲気を持つ若い青年と少しの言葉を交わし、葵の方へと戻って来た。 「会うの楽しみにしていたんですから、代理は今回限りですよ?」 「ああ、すまんな……。ありがとう」  困ったように笑んで出て行く背を見送り、まだ一言も交わしていない彼の方へと近付いた。渡瀬からいったいどのような話を聞いて興味を持ってくれたのかが分からず、多少の不安がつき纏う。  すっきりとした涼やかな顔立ちと、癖のない艶やかな黒髪。スーツからタイピン一つを取っても品の良いセンスを漂わせている。左目横にある小さなほくろまで見付けたところで、視線が合う。彼が座るソファの横をぽんと叩いた。促されるまま隣に座る。 「きれいだね」 「あなたも、つい見惚れちゃうほどきれいです」本音が漏れる。 「そうかい?」  すうっ、と球体が、何の障害もなく平面を滑るような声だ。一切の淀みがなく、澄んでいる。しかし、警告染みた黄色信号が点滅しては葵の鼓動を刻む。それは息苦しいほどだ。  たくさんの掌と触れ合わせ絡めた手が、最初に意識して触れた季節のことをふと思い出す。早朝のざわめきに寄り添う記憶がフラッシュバックした。  煩いくらいの静寂の中で、戯れのように彼の脚へ触れる。  同じように触れてくる掌の温度がじわりと広がった。  適度な距離しか開けていない空間はすぐに埋まり、ずっと前から求めていた感覚で瞼を閉じる。ふわりと薄い唇が触れる淡さに両目を開くと、彼は葵をしっかりと見据えていた。柔い雰囲気こそ変わらない。 「酷い記憶力だ」 「……は?」  ぶわりと顔が熱くなるのが葵自身自覚できた。突発的なことには、めっぽう弱い。

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