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第30話

「カット! はい、終了でーす!」  響いた声にのめり込んでいた役の表情から気持ちを解放する。背中を魅せるように体に引っかけただけのシャツ一枚の姿で床に座っていた。そんな葵の顎に手を添えて上向かせていた眼前の青年が慌てた様子でポーズをとく。  それから、すいませんと謝られた。仕事なのだから、決して謝るところではないと思う。制止の言葉をかけようとするが、またすいませんと言われ慌ててシャツを正された。  それなりに体格の良いその青年に苦笑を向けながら、葵はありがとうと口にする。  このPV撮影だけでも数時間が経過していた。  薄汚さを演出するコンクリートの床には千切れた鎖の欠片や、差し色としての紫陽花が辺りに散らばっていた。それらを含めたセッティングを片付けるスタッフが慌ただしく行き来する。             シャツ一枚しか羽織っていない葵の傍に駆け寄ったスタッフがバスローブを手渡してくれた。  普段からそこまで多量に飲食を摂らない葵が積極的に食べるときは、大抵体が無理をしているときだった。いくら飲んでも美味い料理を食べても、それらは代替品でしかない。本当に欲しいものは分かっている。  ナツと別れた後に電話をかけた相手は多忙のようで、出てもらえなかった。それでも、控室で私服に着替えてから端末を見ると、つい三十分前にメールが入っていた。記されているのはやはり簡素な文面だった。  ただポーズを取るだけのPV撮影は神経こそ遣えど、体力的にはまだ全然ありあまっていた。これならば、むしろ店でシフトを組んでいる普段のほうが大変だ。比べるべきものではないが。  自然の明るさなど、この都会では目を凝らして意識しなければ見えないほど埋没してしまっていた。そして、意識して掴み取れるのは目の前に広がる選択肢だけであり、左に点滅させたウィンカーみたいなものだ。  同じ部屋に辿りついた葵を迎え入れる手を握り返すことが正しい選択なのか判断するには空腹が勝ってしまい、どうでもよくなった。  電話越しを除けば、桐宮と再会して以来二度目の温もりだった。じとりとした湿気が日を追うたびに酷くなるというのにこのスイートルームは、梅雨など知らないという空気を保ったままだ。一度目と同じようにとても美しい。  仕事ではないのだからとシャワーも浴びず、べたべたに繰り返す口付けを交わしながら窓際のソファへなだれ込む。一瞬見えた夜景は眼下に広がっている。 「っ、しゅ……と、だめ。も……だせな」 「ああ」  いったいどこに納得する要素があったのか、物分かりだけはいい彼は、これ以上突き入れることを諦めてくれたようだ。  拡げられたアナルからは既に、どろりとした精液が垂れ落ちるほど出されていた。  葵自身、二回イっただけでも十分で、中一日空いた撮影予定だと言っても、出す時に出せなければ困るのは自分なのだ。 「んぅ、ん……んンッ」  開いた口にべたりとつけられる青臭い味を自ら好んで咥え、舌で咥内で頬の柔肉でその硬さを愛撫してやる。すると桐宮が汗で額や頬に張りついた葵の前髪を横にずらして、ともすれば隠れそうな顔を表出させた。ソファに付属する上質なクッションが頭の下で、寝そべる躰の横で妙に弾力を返して来る。  色事に興じているからか、より一層麗しさにに拍車をかける桐宮の顔を見上げる。  下着とスラックスだけをずらした腰をゆるりと動かし始め、唾液と柔肉で包む葵の咥内で擦る。ただ気持ち良くなるために。薄く開かれた桐宮の唇。そこから熱っぽい吐息が空気に混じるのを聞きながら、再び勃ち上がりかけている自身の先、閉じきらない孔へ手を伸ばした。  咥内を犯す速度が増していくにつれ、葵まで酷く興奮した。どろどろと垂れ落ちる粘液が指に絡みつくことなど意に介さず、突かれるたびに蠢いては求める内壁に指を突き入れる。ぐちゅりと濡れる音が淫靡に響き、気持ちが高揚した。 「ンん……ッ、ふぁ」  葵が勝手に気持ち良くなっていることに気付いても、桐宮は止めようとしなかった。抜き差しのスピードを上げ、彼もまた勝手に気持ち良くなっている。利害だけ合っている。  吐き出される味が舌の上に広がりその精液を喉へ流し込む。いくら飲んでも潤いを感じなかった気管支が、今やっと満足出来ていた。  鈴口まできれいに舐め取り、やっと柔らかくなった彼自身を愛おしそうに口から離す。  喉も潤い、腹も満腹だった。  気怠く四肢を弛緩させる。ぎしりと音を立て葵を組み敷いていた桐宮がソファから立ち上がり、この場を後にした。  室内の小さな照明灯が窓ガラスに反射していて、藍色の空は地平線の方が薄ぼんやりと光っている。ローテーブルの隙間から見下ろす地上はまだ十分に夜の彩りを保っていた。襲い来る睡魔に微睡む。 「葵、ちょっと話があるんだけど」 「んー……ああ、水? ありがとう」  戻ってきた桐宮の手には、ペットボトルがあった。  体を起こすことすら億劫なんだ、と舌足らずに告げながら葵がゆるりと手を伸ばした。その手は空を切る。代わりに唇へ押し当てられた柔らかさに、とっさに目を閉じることさえ忘れてしまった。近過ぎてうまく見ることも出来ない。  あまり比較するつもりはないが、今日彼を選んだことには理由があった。 「一度覚えたことを忘れないのはまだ顕在かな?」口付けを離した桐宮が前触れもなく急に問いかける。 「ん? ああ、数式でも語学でも。まぁ、酷い記憶力と誰かに言われたが」 「それは、思い出したくないことだけなかったことにするから」 「表面的だけでも忘れたい時ってあるだろ」 「……あるな」  正直言って、遠慮の要らない相手だからこそ今にも眠ってしまいそうだった。  会話らしきものは要領を得ずに、葵の口調はのんびりとしている。  自然の明るさなど、この都会では目を凝らして意識しなければ見えないほど埋没してしまっていた。意識して掴み取れるのは、目の前に広がる選択肢だけである。 「今の仕事で海外支店の移動が出てるんだが、一緒に行かないか?」 「え、待て、何の仕事だ?」 「ベンチャーキャピタル」 「投資関係? コンサルと関係あったか?」 「なぁ、半分寝てるだろ。渡瀬さんは親の繋がりで知り合ったんだよ」 「ああ」そうだった。だから桐宮に対して渡瀬が控え目だったのだ。 「海外なら顔を気にする必要もないし、一からやり直せるだろう?」  それは葵にとって、とても甘美な誘いだった。  

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