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第32話

 撮影は予定通り進行していたので、この調子ならば明日で区切りがつくはずだ。  数日過ごせるだけの買い出しを済ませて、しばらく足を向けていなかった店舗へ向かった。どんよりとした重たい空はそのまま夜を迎え、昼間に間断なく降った雨は止んでいた。  入口の扉を開いて聞こえるのは、小さい音量で流れるゆったりとしたボサノバ系のジャズ。耳馴染みが良く、気持ちが安らぐ気さえする。  ロッカールームからちょうど出て来ていた涼がフロントへ向かっていた。どうやら今日はフロントの仕事のようだ。バイトの青年と受付の引き継ぎ事項を喋っている。その傍らにある空いた椅子に座り、葵は自分の予定の確認をした。  適度に自己申告の休みは挟んでいるが、休み明けの詰め込まれ加減は相変わらず容赦がない。  バイトの青年がお疲れさまです、と葵と涼に言い残して、フロントを出て行った。二台のモニターも絶賛稼動中だ。そして涼の眼は器用に、区切られた画面の映像全てを見ているようだ。 「あれから何か変わったことあったか?」 「葵さんウラシマタロウ状態でしたからね」 「うるさいな。それで?」 「いえ、今のところ……は」  画面を見ていた涼が急に勢いよく立ち上がり、キャスター付きの椅子が激しい音を立て壁にぶつかった。何事かと問う間もなくフロントの扉を乱暴に開けては入り口の方へ早急に駆けて行く彼の姿を目で追う。  わき目も振らず、真っ直ぐに向かう涼が抱き締める相手が誰なのかはこちらからは見えない。それでも彼が腕に抱く相手の纏うシャツが破れ、悲惨な状態になっていることだけは分かった。下を向いたまま涼の腕に縋りついている。その小柄な体躯。  いつまでもそれを見ているわけにはいかないので、動揺と共に腰を下ろす。ややあってフロントの扉が開いた。  さりげなく目線をやると、涼が扉を閉めずに、現在使われていない部屋の鍵を取るところだった。その隙間から見えた顔に、葵は驚きを隠せない。  それは、白い頬の片側を痛々しいほど真っ赤に腫らしたナツの顔だった。 「すみません。少しだけ受付お願いしてもいいですか?」涼の声は無理矢理自分を押し殺しているようで、先の激動と比べやけに落ち着いている。 「ぁ……ああ、気にすんな」  頭を下げてフロントを後にした涼の代わりに、涼が立ち上がった際に壁に叩きつけられて隅へ転がっていた椅子を戻して腰かけた。  意識してゆっくりと息を吐く。  除湿と空調の効いた空間。  しかし、落ち着くはずの音楽すら意味をなさず、ほとんど耳に入らない。  当人であるナツに危害がおよんでいるのならば直ぐにでも報告をしたほうがいい、という考えが過ぎった。受付の電話からボタン一つで店長の守代に連絡は取れる。  だが、働きたいというナツの意志を尊重して守ってきた涼の気持ちをあっさりとここで無碍にすることも出来ない。先程の姿を見ると、特にそれが憚られた。  躊躇する指先がデスクに置かれた電話のダイヤルボタン上でさまよう。ピンポイントでこれが正しい、という判断がなかなか決められない。  急に、呼び出し音を鳴らしながらダイヤルが赤く点滅した。慌てて小さな画面に表示された文字を見ると、全く知らない番号だった。おそらく予約だろう。突発的なことに弱いんだと内心独りごち、焦りながら慣れない電話の受話器を取る。 「お電話ありがとうございます。MILK arch新宿店です」  勤務年数が長くとも受付をしたことはなく、酷い緊張を伴いながらの対応となった。パソコンの予約管理ページはログイン状態になっているが、操作方法などはさっぱり分からない。下手に扱ってデータを飛ばす恐れもある。それだけは避けたい。  そこで、頭の中にあるプレイ時間に応じた金額やオプションの値段、モニターに表示してある各自の予約状況を元に、なんとか電話先の相手と日時を決めた。記憶の引き出しから必要な情報をすぐに取り出すことは容易だ。  それから予約の内容を全て事細かにパソコンのメモ帳へ書き留めて、それをデスクトップに貼り付けた。備品の付箋にそのことを書いてパソコンに貼り付ける。  静かに受話器を置いた掌は、慣れないことにうっすらと汗ばんでいた。  一つ深呼吸をする。  やはり面識のない人と電話越しに話すことはどうにも苦手だ。  涼から少しだけと言い残されたが、おそらく少しでは済まないだろう。  彼には悪いが、勤務中の他のマネージャーの番号を早急に呼び出した。そして、受付の涼が緊急の用事で席を外していることを告げる。そうすれば代わりの者が来るはずだが、店長に言わないように逐一口止めをする必要があった。どうにも厄介なことだ。  店舗内の映像は全てモニターに表示されるが、それでも監視カメラに死角はある。受付勤務の長い涼はもちろんその場所を把握しているようだ。絶対に自分の顔が映らないように配慮だけはして、ナツと何事かを話している。代理のスタッフが到着した後も涼とナツが出て来る気配はまるでなく、葵はそのまま帰宅した。深夜に降り続いていた雨は翌朝には止んでいた。  日常生活を送るのに必要な物だけを運んだ二つ目のマンションはあまり生活感がなく、その一室で目覚めた葵は、十分に休めた気がしなかった。  何があったのか、いずれ事後報告をしてくれるはずだと自分自身に言い聞かせて、外出の準備を始める。上手く進めば今日で撮影は終了なのだ。気持ちを切り替えなければならない。  久しぶりに見た店舗用のナツのブログには、一人で写ったピンショットの画像ばかりだった。誰かと一緒に写っているものは一枚も残されていない。  その意味を察し、葵も自分のブログから彼と一緒に写っている写真を全て消した。自分の端末にデータが残っているならそれで良い。

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