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第36話
「時間経つの早いですねー」
「……延長までして、良く言う」
「はは、また来させてもらいまーす」
まだ快活な加藤に対し、葵はベッドに倒れ込んでいた。身動ぎすることも難しい。
何とかシャワーと見送りを済ませ、取り換えたシーツの上に転がる。閉店時間間際だが、まだ他の部屋は使われているようで、防音部屋であっても微かに誰かの喘ぎ声が聞こえていた。
こうしている今も、桐宮への返事を出す期日が刻一刻と迫っている。
今まで別の道を探すことをしてこなかった。そんな自分へ桐宮から示された新たな世界は魅力的過ぎて、どうにも実感が湧かない。目の前に起こる事象を相手取るだけで日々がたちまち通り過ぎてしまっていたのだ。
許されるのならば繋いだ手を離したくない。しかし今葵の周りにある関係性を一気に断ち切る勇気も決断もなかった。ずるずると悩み続けている。それでも一つの名をずっと呼び続けていたいという願望はあった。彼らのように。互いに想い合っているあの涼とナツのように。
寝ころんだベッドから見上げる天井には一般的な蛍光灯だけが見える。その明け透けなまでに全てを晒してしまう空間の中で一人、葵はベッドに丸まって暫しの休息を取った。
どちらが好きという二者択一の選択肢の問題で、「どちらでもない」や「選べない」がないと非常に困った経験が幾度かある。その問題だけ飛ばして先へ進む。
そして時間が余っていれば選んでいなかった問題を適当に選んで答案用紙を提出するという、その場限りの選択をしてきた。だからなのか、葵の言うことに迷わず「はい」と言うヨシのような決断力には非常に驚かされたものだ。
また空腹の限界が近付いている。
仕事の規則など放り出して、欲しいと言ってしまいたい衝動がないわけではなかった。だがそこまで無鉄砲な性格はしていない。ただただ我慢をして、機会があれば守代に求める。
ナツの騒動以来、なんとなく守代に言い出し難かった。また、返事を聞かせてほしいという桐宮からの連絡が入っていたこともあり、あのホテルの一室へと辿り着いた。
解答を後回しにしている自覚はある。それでも、掴まれ抱き寄せられた腕を拒めなかった。
そのまま一緒にベッドに倒れ込む。
葵にとって桐宮は決して手に入ることの出来ない虹や、水面に映る月のようなものだった。それなのに、今触れることが出来る。触れて、口付けを交わすと涙が溢れてきた。
心の底から好きな気持ちは今でも変わっていないのだ。
逃げた事実は同じだが、彼の人生を狂わせたくないという気持ち一つで区切りをつけた。あの過去は結局のところ、放置したまま後回しにした選択肢に過ぎなかったのだ。どちらが好きかなんて選ぶことの出来ない優柔不断さが今になって顔を出して惑わせる。
話をしに来たというのがあたかも口実に見えるほど、葵の方から強請っていた。仕方のないことだ。空腹時に食べ物を差し出された獣のように、すっかり手慣れた膳立てをしていく。
「貪欲だな」
「寿人のせいだろ」
「葵に素質があったってことだよ」
「……ん、ッ……はぁ」
指でぐちゃぐちゃにほぐされた後、桐宮を押し倒して跨る。その膨張した質量を埋めたところで満足など出来やしない。内壁を擦り絶頂にイかせてくれるセックスならば仕事でしていることと変わりないのだ。そうではない。仕事で葵を指名してくれるのは、葵の顔だったり体などを愛でている。
それに対し、桐宮は自分と同程度の容姿と知識を持った葵だから好いてくれているのだ。その傲慢が許される彼に惹かれたのは葵も同じで、体質が変化するほど注ぐことを自ら容認していた。
少しずつ腰を下ろし、先端からじわりと奥へ進ませる。
繋がりから共有する体温が心地よい。
「ひ、ァんや、ゃっ、ま……」
「待てない」
下から突き上げる動きが加わり、力が抜ける腰が落ちた。一気に奥まで貫く質量に一瞬だけ意識が飛び、反転した視界は桐宮の顔を見上げる形になっていた。
「そんなに俺のこと、好き?」葵が問う。
「ずっと気持ちは変わっていない」
もはや欲していたのがどちらなのか判別出来ない。閉じないアナルから垂れ落ちる精液に確かに満ち足りた気持ちで、不安定になりかけていた精神状態は落ち着きを取り戻した。力の入らない躰は相変わらずだ。身に纏うものは腕に巻いた包帯だけで、アブノーマルな姿ですらある。上体を起こそうとすると同時にナカから垂れる粘液が太ももを伝い、眉を顰めた。一度出してもらえば満足するが、伝い落ちる不快感はある。
「どこに行くんだ」
「ナカ掻き出すんだよ」
「せっかちな奴だな」
背後から抱きしめる桐宮の抱擁はとかれなかった。逆に擦り寄る彼の体温が葵の皮膚と触れ合い、溶け合う。気怠い微睡みの中で抗わず、睫毛の陰が落ちる滑らかな彼の頬へ唇を寄せてみれば、驚くほど手入れが行き届いているのが見えた。昔から何一つ損なわれていない完璧さだ。
橙色に染まる放課の教室で告げられた言葉に、あの頃葵は疑いもせずに「はい」と肯定を示していた。それが自分にとって絶対であり、確固とした世界であるかのように。迷いなく手を繋げたのだ。
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