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第37話

 ハッと目が覚めた。少しは寝たのかもしれない。寝転がったまま隣を見回すとまた広いベッドに一人で、桐宮の名を呼んでみても返事がない。身動ぎ立ち上がりかけるとやはり腰に馴染みの鈍痛が走り、顔を顰めた。体はきれいに後処理がされている。 「ああ、起きた?」  着替えを済ませ窓際に行くと桐宮がいた。眠っている間に届いていたのか、ルームサービス用のトレイがある。  テーブルにはコーヒーポットとカップ。雑音や喧騒の欠片もない、高層の部屋から見下ろす早朝の町並みはなんだか、どこにでも行けそうな気分になる。  窓際の椅子に腰かけ、注いでもらったカップを両手で握る。砂糖もミルクも入れない。これも変わっていないことの一つ。  はっきりと、明確に変わらない指針はある。ただ、気付いていないだけだ。  ほどけかけている包帯からは絆創膏が覗いていた。  中途半端に桐宮の願望を受け入れたからこそ、葵は見えない棘で苦しんでいた。よりを戻そうとしてしまったこと。そのことに対して。  目の前で優雅に佇む相手は欠点という欠点すらなく、未来が開けている。だからこそ、それを摘んでしまうことから逃げた。流れに逆らえないまま曲解した知名度を得てしまった自分が傍にいる相手ではないと。  選択の繰り返しで現在になるのだ。  その選び取った未来の形。  信頼し合っていた彼らが互いに守ろうとしていた未来。  結実した愛の形をずっと大切にしようとする揺らぎのなさ。 「こうして、また会えて良かった」葵が言う。 「ああ」  真っ直ぐにこちらを見据える、美しい造作の顔を見返す。ああ、そうだ。後回しにしていた答えはもうとっくに自分の中で答えは出ていた。始めから分かっていたことだ。 「俺は、一緒に行かない」  滅多に崩れない彼の表情が一瞬だけ、瞬きをしたら見逃すほどほんの一瞬動揺に揺れたさまを見ることが出来た。未練がましい心に蓋をする。なかったことにする都合のいい記憶を酷いと揶揄された再会のことを思い出す。  気付いてしまったのだ。  これが、これこそが物事を決断して自分の大切なものを守るということに。 「ずっと今の仕事は続けられないだろう」 「そうだな。でも、今決められるのはここまでだ」 「そうか」 「もう会わない」再び手を離す。  刺さっていた棘が霧散して消えた。 「今までありがとう――さよなら」    謹慎のとけたナツが今までと変わらぬ様子で出勤していた。  その頬に薄っすらと跡は残っているものの、ほとんど目立たない。  そして、妙なオプションと化していた葵の包帯も取れていた。絆創膏を取った後の皮膚も注視しなければ気付かないほどの跡となっていた。  梅雨も明け、からりとした日和が続く変わりのない日常。  日中の平均気温が更新されているニュースをBGMに、多量の服の中から気分に合った物を選ぶ。誰かからの贈り物ではなく、自分の私服として選ぶ際にはそれなりに多少の時間がかかっていたが、それはほんの少しだけ改善された。  そして、室内に漂うふんわりと甘い香りは、やはり彼には似合わないなと内心思う。香りに引き寄せられるようにリビングへ向かえば、スーツではなくカジュアルな服装の守代が食事をテーブルにセッティングをしているところだった。  一つあくびを溢しながら席に着く。  昨晩、日付が変わり数時間経った頃に守代の送迎でこのマンションに帰宅していた。そのまま着替えもせずにベッドに突っ伏したところで記憶が途切れている。そして目が覚めた時には一人でベッドを占領していた。大変申し訳ない。シャワーといつも通りのケアをして、やっと一日が始まったのは昼を過ぎている時刻だ。  テーブルの上に乗るのはサラダとハムエッグ、それからパンケーキ。  それらがワンプレートに盛りつけられている。今回のパンケーキはやけに分厚い。二㎝はあるのではないかと思うほどだ。直径は小ぶりだがそれが数段重なっている。葵はその、女性向けかと疑いたくなる好物に目が釘付けになった。 「……」 「どうした」 「……凄いね、これ」 「前食べたいって言ってなかったか?」 「ああ、パンケーキ特集の」  以前、休憩室で鉢合わせた時に眺めていたホームページの画面を戯れに見せていたことがあった。こんなに甘ったるいものが好きだというのは、ごく限られた人にしか言っていない。  コーヒーのマグカップが置かれる。  王冠のマークが入った揃いのマグカップ。  守代に自分の体質を話した後に恋人という関係となり、初めて彼にプレゼントした物だ。あれから、ビデオの撮影だけの毎日だった葵を引き抜き店の看板にしてくれたあの日から、店舗内での守代の態度は少しも変わらなかった。  外ではあくまでも店長の顔をしている。  そんな彼のストイックさはいっそ清々しい。 「ナツのこと、ありがとう」 「何の話だ?」 「他の子も巻き込んでいるのに謹慎で済ましたこと」 「梁木が事件の翌日頭下げに来たからな。それに、辞めさせるには惜しいのもあった」 「はは、さすが店長」息を吹きかけてカップに口をつける。まだ少し熱い。 「本部からの雇われと言っても立場上な。で、何で俺に言わなかった」  今までも葵自身変質的な人間と関わり合いを持ってしまい、そのたびにいつも店側に報告をしていた。店の子にしても何かあるたびに葵へ相談ごとを持ちかけておりそれを守代に伝え後ろ盾となってもらうことも度々あったのだ。  だが今回は、とりわけ事情が異なった。  ただのストーカーならまだしも、カラオケボックスでナツから元カレの話を聞いた手前、守代へ言うことがどうしても憚られたのだ。あたかも自分の冒していることを自白しているような。その自覚があった罪の意識に他ならない。  答えを用意していない言葉は咄嗟に出て来てはくれずただ謝罪の短い言葉に変えてカップを置いた。 「一人で抱えるなよ」  落ち着いた大人の声が冷めないうちに食えと促す言葉を付け加えられた。  目の前のワンプレートに、葵の欲しい未来が全て詰まっている。それがどんなに尊いものか、今更にして思う。切れ込みを入れたパンケーキに、メープルシロップがじわりと染み込んでいった。  

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