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第三話 齋明 基

 カミソリは触れただけで、右手を引かずとも左手首を赤く染めた。痛みはなかった。止めどなく溢れる血に、匠はただ目を見開き驚いた。どうすればいいのかわからなかった。隣の部屋に兄がいるのを思い出し、部屋を出た。兄の部屋の扉を開けて、笑った。 「どうしよう」  無骨な銀色の腕時計に隠れて、白い傷跡がある。匠はあの時兄に助けを求めたことを時折後悔し、時折いつか感謝する日が来るのだろうかとぼんやりと考える。  街路樹の葉はすっかり落ちて、並木道を仰ぐと枝の間から空が覗く。木々の息吹が見て取れなくても、匠はその光景が嫌いではなかった。人の美的感覚などお構いなしに育った枝振りだと言うのに、美しさを感じる。  視線を下ろすと、並木の元に白いMR2が止まっていた。匠は無言で助手席に乗り込む。  運転席の体格の良い男は、生真面目そうな顔を笑みの形にする。兄の(もとい)は、今日も車に似合わないスーツを着込んでいた。仕事帰りなのだ。数年前スーツ姿の兄を見て、ドラマに出てくる熱血刑事みたいだと言って笑われたことを思い出す。  車は学校を離れ、街の中心部へと向かう。 「ちゃんと薬は飲んでたか?」 「飲んでるよ」 「そうか。それならよし」  基は二週間に一度、匠を病院へと送迎する。精神科だ。六年前のあの日以来、基は過保護な程に匠に構う。両親もそうであったが、匠はそれを拒んだ。  匠は家が嫌いだった。無条件の愛が耐えられなかった。生きているだけで親の金や精神や労力を費やす。  愛される資格のない自分を愛する者を、匠は拒み続けた。その結果が、自殺未遂、そして別居だった。  ただ、唯一の兄弟である基には親程の拒絶反応がなかった。  診察が終わり薬を受け取る頃はいつも夕食時で、その日は必ず兄弟二人で外食をする。匠が先日二十を過ぎてから、兄は洒落た飲み屋に連れていくようになった。外食は嫌いではない。理由はわからない。  兄が自分に普通の生活を手にして欲しいと願っていることはわかる。だがその生活を手に入れる方法が、自分にはわからない。手に入れる気力もない。過ぎてゆく時の中で、一瞬何者かに必要とされ、それを消化するとまた無為な日々に戻る。生きている手ごたえはその一瞬だけで、次の一瞬の為に生きている。  兄の思いも結局は親と同じ無条件の愛。  その愛を返せないことが、とても辛くてならなかった。

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