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二 ①

 ──そこは昔の日本か、それとも中国か。 広い畳の部屋、豪華絢爛な装飾が施された欄間や天井、襖の見事な水墨画。正面の御簾の奥の人影。  ゆるりと動けば、美しい歌のような声。  蝋燭の怪しげな灯りが金の眩しい部屋をまるく切り取り、灯りがひとつ揺れるとぴくりとも動かなかった側近が御簾を…… 「響!」  風呂から戻った涼は、文机に突っ伏し寝息を立てている響の頭を小突く。  スタンドの蛍光灯が響の後頭部に反射した光が綺麗だ。細いさらさらの黒髪の成せるつやつやとした光。  小突かれた頭を持ち上げた響は、周囲を見渡し目をぱちぱち瞬く。突然夢から現に引き戻され、意識が追い付かない。  内容はかき消え、夢を見ていたという意識だけ残ったが、見ていたそれはとても重要だった気がして、響は焦点の合わない瞳でしばらく思いを巡らせた。 「まぁだ寝惚けてんのか!風呂で寝るなよー」  もう一度涼が頭を叩くと、ぼんやりしていた夢の輪郭は完全に霧散した。  響はひとつ欠伸をしてタンスから着替えを引っ張り出した。こうなるともう響の頭では、夢の輪郭どころか夢を見たと言う意識さえ彼方に消える。  いつもの事だ。  うとうとすれば夢を見て、覚醒しかけるとぼやけ、覚醒すると完全に忘れる。夢とはそうゆうものだし、すぐに忘れてしまうもの。  まだ僅かにぼんやりした頭のまま、響は風呂へ向かった。  一階へ降りると、明かりは廊下だけ。両親はもう寝静まったようだ。  季節柄追い焚きも必要ないし、ボイラー音で起こす事もないだろう。ぬるい湯船に浸かり、響はふぅっと長い息をついた。  涼は何で空閑みたいな女が好きかな。あんな、人の外見しか見ないような女……  体を弛緩させ思考に没頭していると、またうとうととしてきて、響は慌てて風呂から出た。風呂で眠って溺れるなんて、目も当てられない。昔一度やっただけに笑えない。  響は昔からどこででも眠ってしまうタイプで、一度湯船で寝入って溺れかけた事がある。別に夜眠れないわけではないのだが、ついうとうとと、場所もわきまえず眠ってしまう。  部屋に戻ると、響の万年床の隣に雑に敷かれた布団の上で涼がいびきをかいていた。いつもはゲームだ漫画だ、響の部屋には娯楽が無いと文句を垂れるのに。涼なりにカラオケで気を使っていたのだろう。  響は髪も乾かさないまま電気を消した。  翌日、響と涼は二人揃って遅刻した。 響の母曰く「あんまり良く眠っていたから起こすのが忍びなかった」だそうな。 「珍しいな、響が寝坊するなんて」  いつもは目覚まし無しでも定刻に起きる響だが、今朝は涼の携帯の喧しい目覚ましさえ気付かなかった。 「夜中涼のいびきがうるさかったからなぁ」 「うっそ、俺そんな酷い?」 「いや、普通」  口一杯に米を頬張ったまま、涼は唇を尖らせる。 「何か最近やたら眠いんだよな。結局夕べも宿題出来ないまま寝たし」 「そういや響が宿題途中だったから写せなかっただろ」 「自分でやれよ」  中学の頃から涼は響の宿題を写して提出するが、何年も決まって必ず同じコメントが付く「大河君の宿題を写さず自分で考えましょう」。首席と三桁台の回答が同じだとそりゃバレバレだ。 「うわー大河何その弁当! 野菜ばっかし!」 「ダイエット中の女子みたいだよな!」  響の弁当を覗き目をまるくした華にけらけら笑った涼は、華に頭を叩かれた。 「何お前ダイエット中? それ以上痩せたらただでさえ少ない胸が無くなるんじゃねーの?」  デリカシーが無いと今度はノートの角で殴られてしまった。夫婦漫才は喰い飽きたとばかりに響が用事があるんじゃないかと訊ねると、華は手をポンと叩き持っていたノートを広げた。 「もうすぐ夏休みでしょ? なのにあんたら一限目遅刻したじゃん。ほれ、宿題の範囲」  どうせ涼は大河の宿題を丸写しするんでしょうけどね。と付け加えてノートに書いた歴史の宿題の範囲をペンでぐるぐる囲む。響が礼を言って自分のノートを広げ範囲を写していると、華がまた響の弁当を見て感心の声をあげた。 「いっつもそんな野菜だけの弁当なの?」 「響は弁当どころか晩飯も野菜だけだぞ。ベジタリアンだよな」  ノートを閉じた響は苦笑して弁当のピーマンソテーを頬張る。 「ベジタリアンってわけじゃないけど。小さい頃からこうなんだ、肉とか魚とか、動物性のものは体が受け付けないんだよ」 「へぇ、お得な体質だねぇ」 「そうでもないよ。添加物とかも一切駄目だから野菜も無農薬じゃないと食べられないし、化学調味料も駄目。水道水も飲めない。ついでに言うと空気が悪くても具合悪くするし。だからここに越してきたんだ」  まるで響自身が無農薬温室栽培。 「何か、大変だね。体弱いの?」  始めは肉食べなくて平気なんて羨ましいと言っていた華も、心配気に声を落とした。確かに響が口に出来るものを選んで少ない材料で毎日料理を作る母は大変だろうと思う。完全無農薬の野菜なんてそうそうないし、おまけに高いからととうとう自分で畑も作ってしまった。  響自身はと言うと、先日のように友人と食事や買い食い出来ない事が少し淋しく思うだけで、さして自分の体質を不便に感じた事はない。 「まぁ、ちっちゃい頃に一度死にかけたけど今は至って健康だと思うよ」 「死にかけた!?」  驚いて口を開いた華より先に、涼が米を飛ばしながら叫ぶ。 「汚いな! って、涼に話した事なかったっけ?」 「初耳だぞ!」 「んー……別に話してもいいけど、ここだけの話にしといてよ」  響は箸を置いて組んだ手に顎を乗せる。少し目を伏せて当時の事を思い出す。

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