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二 ②

 毎日、白い天井ばかり見ていた。白い部屋、白いベッド、白い布団、白い服。いつも医者は難しい顔をしていて、看護師は憐れみを湛え、両親は疲れきった顔をしていた。そして、いつも悲しそうだった。  細いからだは同じ年頃の子供の半分もなかった。  苦しい、苦しい、息が出来ない。身体中内も外も痛くて、もうどこが一番苦しいのかもわからない。視界は歪んで、両親の声が遠い。  絶え絶えに吐く息は熱く重く、きっと高熱が出ているのだろう。  何年も発作を繰り返して、その夜はもう意識も朦朧としていた。発作は無かったが、もう体力も限界だった。かろうじて浅い呼吸の中、眠ったり起きたりを繰り返した。きっと意識が途切れがちだったのだろう。  部屋に満ちる、一定のリズムを保つかたい機械の音。  ふと、響の枕元ですすり泣く両親がふらりと部屋を出た。  待って、待ってよ、行かないで。一人にしないで。怖い。怖いよ。死ぬのは嫌だ。助けて、お願い助けて。  僅かに差し込む月明かりも見えなくなり、視界は暗い闇にどんどん侵食されていく。息が出来ない。吸う事も吐く事も出来ない。体が動かない。苦しい、死んでしまう、こんなに苦しいのに、いつもの発作のようにもがく事さえ出来ない。なのに頭はハッキリとしていて。このまま誰にも気付かれずに死んで、死んでしまう。  一定のリズムは狭まり早くなり、数字は乱れ、やがて音は単調に延びる周波数だけになった。数字はゼロになった。  響は一筋涙を流し、目を閉じた。  死んでしまった。一人で死んでしまった。お母さん、お父さん、どこに居るの。僕は一人で死んでしまったよ……  両親が病室に戻ってきた時、響は生きていた。母は響の額に浮かぶ大粒の汗を拭って、堪える事が出来ない涙をはらはらと流した。父は母の肩を強く抱き締め、響の手を大きな掌に包んだ。  響は空が白んで来た頃に目を覚ました。もう薬も呼吸器も必要なかった。  きつく抱き締めた母の体は響と大差ない程痩せていた。けれどとても、暖かかった。  ああ、生きている。両親の声が聞こえる。自分の心臓の音がする。もう、苦しくない。  母は響が目覚めた時の事を今でも忘れられないと言う。 「まるで壊れそうなくらい、綺麗で愛しかった。きっと神様が助けてくれたんだね」  その日、両親は医者から今夜が峠だろうと告げられていたらしい。けれど響はそれを乗り越え、みるみる元気になった。暫くはは退院出来なかったが、一年後には学校にも行けるようになった。それどころか、成績も運動も軽々同級生を超えた。  結局誰も気付かなかったから誰にも話さなかったが、響はやはりあの夜一度死んだのだ。口では説明出来ないが「死んだ」と言う感覚は未だ鮮明に体にこびりついている。  世間で言われる臨死体験等はなかったが、何か夢を見た気がする。とても大事な夢だったようだが、どうしても思い出せない。 「どした、黙りこくって」 「いや……そうだな、オレが死んだ、じゃない、死にかけた話だったな」  うっかり口から零れた台詞を涼が拾って繰り返したが、ただの言い間違いだと誤魔化した。  さすがに、一度死んだとは言えない。 「結局何の病気だったかは未だに分からないらしいけど、オレ産まれた時から入退院繰り返しててさ。七歳ぐらいの時かなぁ、医者にもう駄目だって言われたらしいけど、奇跡的に助かったってわけ。病気はすっかり消えて健康優良児。でもそれからだなぁ、野菜しか食べられなくなったの。それまでは普通に食べてたんだけど」 「何かふかーくトリップしてた割には随分簡潔な説明ね」  いつの間にか近くの椅子を引っ張ってきてスナック菓子を摘まんでいる華が眉間に皺を寄せた。 「昼飯抜いてもポテチなんか食ってたら余計太るんじゃねぇの?」 「今はそうゆう話じゃないでしょ涼!」  華は顔を真っ赤にしてまた涼の頭を叩いた。  同感だ、涼。 「あ、やばい、そろそろ昼休み終わっちゃうじゃん! 次体育だから急いがないと。じゃ、続きはまた今度ね!」 「続きもなにも、今ので終わりだよ」 「ダメダメ、ちゃんと詳しく聞かせなさい!」  言って華は勝手に拝借した椅子も戻さず、体操着の入った鞄を抱え慌てて出ていった。気が付けば、既に教室の大半が移動してしまっている。 「じゃ、俺も行くかな。響は見学?」 「うん。弁当の残り食べたら行くよ。先生に言っといて」 「秀才は得だよなー」  のろのろと教室を出る涼を見送って、響は弁当の残りに箸をつけた。  学年首席の響は、ある程度の融通がきく。成績優秀素行良しだもんだから、教師から些少の事は多目に見てもらえるのだ。  死んだ時の事、久し振りに細かく思い出した。  当時の苦痛を思うと今でも恐ろしいが、そこにあるのは恐怖だけじゃない。ぽっと心が暖かくなるような、柔らかい感情がある。  なんだろう……苦痛ならば克明に思い出すのに。  弁当を食べ終え、少し息をつくと窓から喧騒が僅かに入ってきた。グラウンドで涼たちがはしゃいでいる声だ。  涼のやつ、真面目にやれってまた先生から叱られてるんだろうな。  午後の日差しと遠くに聞こえる楽しげな音を聞きながら、響はまたうとうとしてきてそのまま眠ってしまった。 「また寝てやがる。おい響! 先生が心配してたぞ!」 「え……あ、涼……?」 「おう……」  寝ているうちに授業が終わってしまったようで、制服に着替えた涼から叩き起こされた。焦点の合わない瞳でぼんやり涼の顔を見る。 「……なんだ、また馬鹿みたいな顔して」 「……ぎる」 「は?」 「寝惚けた響が色っぽ過ぎる!」  そう言って天井を仰いだ涼の頭を叩く。 周囲から携帯カメラの音が大量に聞こえたのは今更だ。  こんなにぽこぽこ叩かれて馬鹿になりやしないかと思うが、既に馬鹿だから問題ないだろう。 「ところで響さ、お前プールは塩素が入ってるから入れないんだよな?」 「そうだよ」 「塩水は平気だよな?」 「ああ、海? 大丈夫だと思うけど」  涼はそれを聞くとガッツポーズを作った後、響の手を取って何度もお礼を言った。  まさか、海岡達と海に行くなんて話になってるんじゃないだろうな。

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