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三 ①

 ──衝立の向こうの人はふぅっと息をついた。  反対側では医者とおぼしき白い衣装を着た初老の男性が音も立てず部屋を出る。閉められた襖には七色の美しい鳥が描かれている。  すぐに表が騒々しくなり、やんわり咎める声がする。 『病人が寝ているのです。お静かに。』  ばたばたと床板を鳴らしていた足は忍び足になり、近くで止まり襖がそろりと開く。隙間から遠慮がちに入った顔はきょろきょろと部屋の中を見渡し、畳に敷かれた布団を確認して恭しく頭を下げると静かに引っ込んだ。 『やぁ、見つからなかったようだ。気分はどうだ? いや、いや、無理に話さなくともよい。』  美しい声で話す衝立の向こうの人は、顔を出さずにするすると手だけ伸ばし額を撫でる。手には美しい装飾の金の腕輪が何重にもあり、しゃらしゃらと澄んだ音が耳に心地よい。 なんて懐かしい。  この美しい声も、暖かい手も、澄んだ音も、遠く忘れていた。  手はすぐに衝立の向こうに戻り、医者が戻って来ると顔に熱い布が掛けられた。 『もう大丈夫です。門番を呼びましょう……』 「響! 気が付いたのね!」  目を覚ますと一番に、母の声が耳にきんと響いた。響がゆっくり声の方に顔を向けると、ハンカチを握り締めていた母が覆い被さるように響を抱き締めた。 「母さん……苦しい……」  慌てて母は体を起こし、涙でくしゃくしゃになった顔を拭う。 「涼君から電話もらって、お母さん腰が抜けるかと思ったよ! あれだけよそでものを食べないように言ってたのに……もう! 馬鹿! 無事で良かったよ!」  母はひとしきり泣いた後、医者を呼んで来ると言って部屋を出た。  響はゆるりと辺りを見渡す。  白い天井、白い部屋、白いベッドに白いカーテン。白いシャツ。 「……涼」  母に気を取られて全く気が付かなかった。視線を窓に移すと窓辺で壁にもたれ掛かる涼が居た。 「やっと気付いたか、コノヤロ」  涼は隅に並べてある椅子を引き寄せ、ベッドのそばに座る。ふぅっと息をついて、響の額を優しく撫でた。涼がいつも着けているブレスレットがしゃらしゃらと音を立てる。  あれ……この感じ? 「何だ? 変な顔して。そりゃ男に頭撫でられたって嬉しくないだろうがよ」 「いや、嬉しいよ。悪かったな、心配掛けて」 「そうよ! 涼君によっくお礼言っておきなさいね。涼君が居なかったらあなた死んでたかもしれないんだから!」  医者を連れて戻ってきた母から怒鳴られ眉をひそめる。正直まだしっかり覚醒していない頭に母の金切り声は辛い。  医者がやんわりと母に静かにするよう咎める。  まただ。この感じ。前にも一度同じような事があったような。  響は医者と看護師にあちこち検査されながら目を閉じた。  そう、夢だ。夢を見ていた気がする。ぼんやりとしか思い出せないが、夢の中で誰かが自分の額を撫でた。その手の感触がとても心地よかった事を覚えている。それと、誰かが静かにと咎めた声。  響は意識を失っている間見た夢を懸命に思い出そうとしたが、唐突に聞こえた医者の声で現実に引き戻された。 「念のため、暫く入院して検査しましょう」  途端母が悲痛な面持ちで医者を見たが、医者は優しく微笑んで柔らかい声で続ける。母を安心させようとしているのだろう。 「息子さんは幼い頃重篤な病にかかっていたとか。それが完治しているかみてみましょう。アレルギーに似た体質の原因も分かるかも知れません」  母は少し安心したようで、出て行く医者の背に深く頭を下げた。  とは言っても、昔散々検査した響の体。今さら何か分かるとも思えない。響はふっとため息をついて涼を見た。 「もうすぐ終業式なのになぁ、病院で夏休み迎える事になりそうだよ」 「呑気なやつだなぁ。ちったぁ自分の体心配したらどうなんだ」  涼が呆れてそう言うと、反対側でまた母が喚きだした。 「全くあなたは自分の体の事ちゃんと分かってるの? この際また隅々まで検査されて自覚なさい! 涼君、皆がどれだけ心配したかよっく響に話してあげてね!」  そう鼻を鳴らして母は鞄を引っ付かんでドアへ向かう。 「母さん」 「はいはい!」 「心配掛けてごめん。またあんな思いさせて、ごめん」  母は足を止めて響を振り返り、涙を溜めた目で笑った。 「……あなたが無事ならいいのよ。お母さん一度帰って入院の準備してからまた来るから」  響が恐怖したように、母も恐怖と不安でいっぱいだったろう。愛する一人息子が死んでしまうだろう恐怖はどれだけのものだったろうか。想像する事しか出来ない。 「そういや、海岡と空閑は?」  母が病室を出て二人きりになり、響の頭の横に顎を置いてナースコールをいじっている涼に訊ねた。 「ああ、二人もついてくるって聞かなかったけど帰らせた。だいぶ暗くなってきてたから女子にゃ物騒だろ」  と、言い終わると涼は急に立ち上がり大声を上げそうになって寸でで自分の手で口を押さえた。 「しまった、俺おばさんについでに送ってもらおうと思ってたんだ」  どれくらいの時間意識を失っていたのか分からないが、カーテンの隙間から見える空は真っ黒。バスも最終が出て久しく、涼の両親は既に晩酌中だったらしく帰る術がない。 「事情話して泊まって行けば? どうせ母さんも今日はここに泊まるんだろうし。寝るとこはないけど」  涼は部屋を見渡し、隅にある椅子を壁際に並べる。三脚並んだ椅子を離したりくっつけたり。やがて椅子は諦めカーテンを引っ張ってみる。勿論外れない。  響の隣に戻ってきた涼は布団を少し捲りまじまじと眺めて。 「響の隣で寝るか!」 「アホか!」 「冗談だって……んな本気で殴らなくたっていいだろ」  思い切り響に殴られた頭をさすりながら唇を尖らせる。  結局涼は早くに戻ってきた母に連れられて帰って行った。間もなく電気が落とされ、響は暗い病室の中一人浅い眠りに落ちた。 何故、病院で一人寝ていると孤独感が増すのだろう……

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