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四 ⑤

 数日後、その服を持って、響は鬱蒼とした山道を一人歩いていた。  明後日は始業式。学校が始まる前にこの服を返さなければならない。こんな変な服をずっと持っているわけにもいかないし、捨ててしまうのも忍びない。  それに、また無理矢理あの人の元へ連れて行かれても困る。この際だ、巫女の事はきちんと断ってしまおう。  一緒に行くと言ってくれた涼には悪いが、響は一人で山に来た。これ以上変な事には巻き込みたくない。涼には平和な日常の中で生きてもらわないと。  響は一人獣道を歩きながら、なんとなく感じていた。恐らく自分はもう日常に戻れない気がする。いつものように涼とはしゃいでいても、そこは自分の居場所ではない気がしてならない。  だってほら、本当に着いてしまった……  目の前に巨木に埋もれた古い石鳥居。どこをどう辿ったか知らないが、石灯籠を見つける事もなく涼と来た時の半分程の道程で簡単に神社に着いてしまった。 「おお、響殿! やっとおいで下さいましたな!」  境内を掃いていた松山老人が響に気付き、箒を手放して揚々と出迎えた。 相変わらず漆黒の袴。 「さぁ、荷物を持ちましょう。こんなに汚れて、まずは身を清めましょうかな。儂は風呂を焚いてきますのでな、響殿はくつろいでいて下され」  服を返しに来ただけなのに。  松山老人は響が何か言う隙も与えず響を社務所に押し込むと、さっさと消えてしまった。  響は溜め息を落とし、社務所から出て境内を歩いてみた。  前回は夜だったのでよくわからなかったが、こうして明るいうちに来てみるとなかなかに気持ちの良い場所だ。周りの山は鬱蒼としているが、ここだけぽっかりと開けて風が良く通る。  本殿は近頃建て替えたもののようで、白木が美しい。全く気が付かなかった。松山老人が一人で建て替えたのだろうか?  風で木々がざわめく音、手水から湧く水の音。夏の終わりの虫の声。  あ、まずい。うとうとしてきた。 「響殿! 良い湯ですぞ、さぁ、さぁ」  元気な老人だ。  本殿の階段に座っていた響は眠る寸での所で松山老人に助けられた。 「五右衛門風呂なんて初めて入りました」 「なかなか良いものでしょう」  湯上がりさっぱりの響は冷たい緑茶と水まんじゅうを振る舞われ、ちょっと上機嫌になっていた。  一応電気は通っているようだし、冷蔵庫位はあるのだろう。冷たい緑茶が火照った体に気持ち良い。 「さて、日が暮れるまでもう暫くありますので、前回出来なかった説明を致すとしましょうか」  松山老人が説明に入る前に、響は皆で考察した事を話してみた。この神社の事、手形の事、巫女の事、等々。  本を読めない響が、知っていたあの文言の事。 「ほう、ほう。よくあれだけのものでそこまで判りましたな。概ね正解ですじゃ。手形は特殊な念が込められておりましてな、その念によって迷わずここまで来る事が出来るのです」  酷く非現実的ではあるが、実際にこうして迷わず響が来れたわけだし、その念とやらをはなから疑う事も出来ない。 「文言は、響殿は知っておって当たり前なのです。儂はそれがいつかは存じ上げませぬが、あちらで何度も聞かされた筈。響殿はこの地のお生まれではないようじゃが、この地に来たからにはこの神社を無意識に意識しておったからでしょう」  無意識の意識。そんなものは良くわからないが、確かに引っ越し先を決めるためあちこち両親と走り回ってこの地に立ち寄った時、ここだと思った。ここでなくてはいけないと。 「どうしてここは女人禁制なんです? あの人と関係があるんですか?」 「ふむ……幸い、主上の好みではなかったようじゃから良かったものの。気に入られれば嫁にしておしまいになる」 「ええと、つまり?」 「少し昔話を聞いていただけますかな? かつてはこの神社は女人禁制ではなかったのです。年に一度の見合いではそれはそれは美しい娘達がこぞって参っておったそうな。当時は娶られる事が誉とされておったようじゃ。それが時は流れ、信仰は形を変えてしまい、いつしか見合いで選ばれる娘は贄と呼ばれるようになってしもうた。やがて贄の娘を護りたい一心で親は娘を連れて遠く隠れてしまうようになる。主上はお怒りになり、神社に訪れる女を手当たり次第連れていってしまわれた。これはまずいと言う話になり、女人禁制とした。そしてあちらの血を引く我ら松山一族が一生をもって守りについた」  まるで生け贄みたいだな。  ふと、響は涼の言葉を思い出した。 「つまり、この神社であの人に気に入られた女性はお嫁さんにされちゃうんですか」 「さよう。しかし娘達も好んで行くわけではないからの、大概はすぐに破談になるのじゃが、一度嫁入りしてしまうとこちらには容易には戻れなんだから儂ら守りの者がしっかり隠してやらねばならんのです」 「はぁ……なんだかお伽噺みたいですね。主上ってのはあの人の事なんでしょう? 何でお爺さんそんな呼び方なんです」  松山老人は髭を撫でて外を見る。  そろそろ夕暮れだ。 「涼の奴から聞かれたかも知れませんがの、儂はこの世での生を既に終えておるのです」 「はい、涼が小さいころ亡くなったと」 「困った事に息子は守りの者になるのは御免だと言いましての。孫の涼はまだ小さすぎた。しかし禁門を現世側で守る者が絶対必要じゃった。そこで引退していた儂がこちらに戻ってきた次第でございます。むこうでのんびり転生を待っていたのじゃがのう……そんなわけで、元々あちらに行っておった儂にとってかの御方は雲の上の存在なのです」 「あちら、って言うのは……」 「こちらの言葉で言うならば、常世の事ですな」 「……この間、あの人がしきりに言ってたんです。現世の禁門へ来いって」 「いつしか金色の門と表すようになったが、ここが禁門ですじゃ」  響は頭がぐらぐらした。  じゃあ何か? この間自分が居た場所は常世?あの世に居たとでも言うのか?  ああ、目眩がする…… 「響殿はちょくちょくあちらへ行っておったようですな。しかし正式に門を潜らずに行けば、記憶は残らんし話す事も出来ませぬ。体を置いて魂だけが行くわけですからな。主上と話すには手形を持ってここを訪れる以外に方法はないのですよ」 「ちょっと待って下さい、オレが? 常世へ行っていたって? そんな覚えないですよ!」 「記憶は残らんと言ったでしょう。しかし、しっかり手形を貰っておいじゃ。主上もそう仰っておいでじゃったし、間違いありませぬよ」  そんな馬鹿な。そんな事有り得ない。  自分が知らない内に何度もあの世へ行っていたって? 話があまりに浮世離れしていてついていけない。 「おっと、そろそろ夕暮れですな。勿論、主上と話して行かれますな?」  全くもって信じられないのに、理解を置いて実感だけが進んで行く。

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