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四 ⑥

 今回夕食は社務所で松山老人と済ませ、布団を持って自ら本殿に進み入った。外から鍵がかけられ、響は持たされたマッチで蝋燭に火をともす。  布団を敷いて真ん中に座る。  また前回と同じように眠らなくてはいけないのだろうか。  思いながらなんとなく外の音に耳を澄ませていると、ふと風がやみ、一瞬虫の音が途切れた。  かたりと乾いた音がして、あの声が聞こえた。 「ちゃんと来たな。待っていたぞ」  奥の木戸が開き、また漆黒の布で顔を隠したその人が入ってきた。今回は蝋燭の灯りで姿形がはっきりわかる。  ふわりと蝋燭の間に座り、柔らかく響の名を呼ぶ。 「響。またお前と話せる事を嬉しく思う」  言いたい事は山ほどあった筈なのに、この人に名前を呼ばれると胸が苦しくなって、巫女の事だとか常世の事だとか、そもそもあなたは誰なんだとか、そんな事はどうでも良くなってしまう。 「あの、とりあえずこれ、お返しします」  響は持ってきていた服、常世で──もうこの際常世でもあの世でもなんでもいい。着せられた服を差し出す。 「なんだ、気に入らんかったか? 良く似合っていたのに」 「顔が見えないのに良くわかりますね」 「そう、私は想像する事しか叶わん。将極が言っておった。とても優美で、衣がかわいそうであったとな」  あの厳つい男か。  微動だにせず響を凝視していて、ちょっと怖かったけれど。 「……あなたもきっと、とても綺麗なんでしょうね」  静かに笑う声が布の奥からこぼれる。  その人は胡座の上に肘をついて、傾げた頭を手の甲で支える。  流れた黒髪からさらさらと音が聞こえるようだ。 「気になるか?」 「はぁ、まぁ」 「私も気になる。どれ、こちらへ」  その人は扇子を置き、ゆるりと手を招く。腕輪がしゃらしゃらと音を立てる。  響がそろりと近付くと、腕が伸びてきて腰の辺りを包んで引き寄せられた。  響を正面に座らせると、ゆっくりと両手で響の顔を包む。  金の指輪がはめられた細長い指が、響の顔を撫でる。響の顔のかたちを確かめているのだろう、隅々まで撫でていく。輪郭、眉、目、鼻、頬、唇。  暖かい手。  この感触を自分は知っている。 「……ふむ、歪んではおらんな」 「なんですか、その感想」 「案外難しいものだな。感触だけで想像するのは。お前もやってみるか?」  返事をする間もなく、掴まれた手を漆黒の布の下に差し入れられる。響はおずおずとその人の顔に触れてみた。  痩せた頬。でも痩せすぎではないと思う。眉の下すぐの眼球。長い睫。高い鼻。唇は微笑んでいるのか、僅に端が上がっているように思う。それと、結構若いようだ。 「うん……歪んではいませんね」 「私と同じではないか」  二人して声をあげて笑う。  その人はまた、響の顔に手を伸ばす。 「髪が短いな。伸ばさないのか?」  男にしては長い方の響の髪を指で梳かしながら、地につく程長い髪のその人は言う。 「こちらでは伸ばさないのが普通なんです」 「ほう、昔は皆長かったようだが」  そうか、昔は男女共に長い髪を結い上げていた。近頃の現世の事情を知らないのだろうか。 「あの、あなたは最近お嫁さん居なかったんですか?」  髪を撫でる手が止まり、するりと落ちた。指輪を抜き取り、手の中で転がしている。 「そうだな……もう長い事私は一人だった。昔はここも賑わっていてな、よく訪れていたが。今や松山老人が一人のみ。さびしくなったものだ」  その人は少し声を落とす。  松山老人から先ほど聞いた話だ。昔はきっと、こんなに鬱蒼とさびしい神社とは程遠かったろう。 「もはや誰も私と話しには来ん。いつしか私もここに来る事をやめてな。前回お前と話すため再び来たのは、幾年振りか。十か二十か、百か二百か」  転がしていた指輪を響の指に嵌め、両手を握る。 「……お前がこうして来てくれて、私は本当に嬉しいのだ、響」  何だか、凄く淋しそうな人だ。  響は嵌められた指輪をなぞる。それは握れば壊れてしまいそうな程繊細な金細工。 「それにしても何だ? あの遊女は。妙な髪の色をして、随分はしたない格好をしておったが。あのような品のない女は初めて見たぞ」  響は吹き出してしまった。おそらく聖の事を言っているのだろうが、よりにもよって遊女だとは。百年以上現世の女を見ていないのだから仕方ないとはいえ。 「今は、あれが普通なんですよ……ぶっ、くく」 「はて、そんなにおかしな事を言ったか?」  気がつくと、もう空が白み始めていた。 「ああ、もう戻らねばならん。久しく時を忘れて話耽ってしまった。すまなんだ」 「いえ、楽しかったです」 「私もだ。さぁ、眠れ。私はここで待っている。響がまた訪れる事を楽しみにしている」  布団に入ると優しく額を撫でられ、響はすぐに眠りに落ちた。  ああ、この手、懐かしい。  ずっとずっと昔に、いつもこの手が額を撫でていた気がする……  松山老人が桶と朝食を持って来た時には、指に嵌められたままの指輪を残して、もうその人の姿はなかった。  顔を洗って、朝食を済ませ、松山老人と少し話して。  そうだ、明日は始業式だ。帰って仕度をしなくては。  一人で山を下りられるか不安だったが、松山老人曰く手形は帰り道も導いてくれるとの事。響は惜しむ松山老人に別れを告げ、山を降りた。  はて。  自分は巫女を断りに来たんじゃなかったか? 思いの外会話が楽しく、すっかり忘れてしまっていた。あの人の声を聞いた瞬間全て頭から抜け落ちて、眠るのがもったいなかった程。  だめだ、もう一度頭を整理して、きちんと考えなくては。  しかし、頭を振っても頬を叩いても、頭はぼんやりしたまま。きっと寝不足だからだろう。今夜は早く休んでまた別の日に考えよう。始業式に遅刻しては大変だ。  陽の一番高い時、響は家路についた。もうしばらくで家だと言うところで、向かいからだらだら歩いてくる人物。こちらに気付くと大きく手を振ってくる。 「よう響!」  重そうな鞄を抱えて涼がだらだら歩きを早めて駆けてくる。 「涼。その荷物、まさかまたじゃないだろうなぁ」  鞄を持ち直し、涼は暑いからとにかく家に上げてくれと勝手に大河家に入っていく。元気に母に挨拶した後勝手知ったる足取りで二階の響の部屋へ向かう。  窓は開けていたものの、部屋は酷く蒸し暑い。涼が勝手にエアコンを入れる。 「どこ行ってたんだ? 今日は俺が来るって分かってただろ? 冷やしとけよな~」 「オレにだって用事はあるんだよ。何も連絡なかったから、今年は自分でやったんだって感心してたとこだったんだけどな」  涼は机に荷物をどさりと広げて満面の笑みで。 「んなわけねーだろ! さ、お前の宿題出せ! がんがん写すぞ!」  響はやれやれと溜め息をついて宿題を出しながら、涼に見つからないようそっと指輪を外した。 

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