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五 ①

 松山老人は蝋燭を変えに本殿に来ていた。かたりと乾いた音がして木戸を見やる。 「これは、主上。ここに居るのがこの老いぼれで申し訳ありませぬ」 「よい。お前に用がある。こちらに私の名が記されたものは残っておるか?」 「文献がいくつか残っておりますが」 「その中に、私が人の頃の名はあるだろうか」 「いいえ、こちらには主上が人の頃の記述は何一つ。何分大昔の話ですから」 「そうか。ならばよい。ああそれと、次からは脇息と座椅子を頼む。腰と尻が痛くてかなわん」 「これは気が付きませんで。失礼を致しました」 「よい。邪魔をしたな」  さて、常世に戻ってきたその人。  有能な文官達は仕事を上げて来る事はあまりない。早々に自分の仕事が終わったその人は自室に引っ込み寝間着に着替える。 「将極よ、お前、私が人の頃の名を覚えておるか?」  着替えを手伝っていた将極は手を止めて少し考える。 「……いえ、なにしろ大昔の事ゆえ」 「そうか、お前もか……書庫に何か残っていないだろうか?」 「書官に聞いておきましょう。して、昔の名が何か?」 「響に名を呼んで欲しいのだが、今の名では長いうえに堅苦しい。そこで人の頃の名ならばと思ったが覚えておらなんだ。……なんだ、何がおかしい」  くすりと控え目に笑った将極に、その人は眉をひそめる。 「珍しいですね、主上がそこまで人を気に入るのは」 「そうか? ふむ、言われてみればそうかも知れん。正直待ちきれん。九年は矢のように過ぎたが、あと数ヵ月がなんと長い事よ」  ふと将極は、顔の横でひらひらさせるその人の手を見た。 「主上、指輪はどうされました?」 「ああ、あれか。響にやった」 「やっ……あれは亡き太后様の形見ではありませんか!」 「その母が言ったのだ。私が心に決めた者に贈れと」 「そ……では、心に決めたと?」 「私は響で最後にするつもりだ」 「本気ですか?」 「なんだ、引っ掛かるな」 「いえ、何でもございません」  将極は衣を抱え、深々と頭を下げ退室した。出口に待機していた下女に衣を渡す。  するすると書庫へ向かいながらひとりごちた。 「……やはり主上はお気付きでないか」  幾度になるか、常世へやってきた響の姿を思い浮かべる。  確かにあの子どもは美しい。しかし……  将極は頭を振って、その先を考えることをやめた。

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