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五 ④

 松山老人に渡された脇息と座椅子を蝋燭の間に置き、蝋燭に火を灯すとその人はすぐに現れた。  響は木戸が開いた時、目を凝らして木戸の奥を見た。しかし、濃い闇が広がるだけで、その人以外何も見えない。  本殿に入る前に建物の裏へ回ってみたが、木戸に続く先はなく、外に繋がっているわけでもない。どういう仕組みか知らないが、恐らく木戸は常世に繋がっているのだろう。しかもこちら側からは絶対に開かない。  ゆったりと座椅子に座ったその人が何か言う前にこちらから一番に断ってしまおうと響は口を開いたが、言葉が出ない。  喉の奥に詰まった言葉が出ないままで、先手は取れなかった。 「良い晩だな、響。今夜は随分遅くに来たな」  駄目だ、聞いては。また断れなくなってしまう。  響は耳を塞いでみたが、静かな夜にその人の声はあまりに響き、手で覆った程度では甘かった。  もっとこの声を聞いていたい、もっと名前を呼んで欲しい。ああ、堪らない。  名前…… 「家を出たのが遅くて。暗くなって着いたんです」 「そうか。夜の山は危ない。無理はするな」 「はい。あの、聞いてもいいですか?」 「何だ? 答えられるものなら何でも答えよう」 「あなたの名前が知りたいです。名前で呼びたいんです」  その人は扇子で掌を一つ叩き、嬉しそうに声を弾ませる。 「そうだ。私もお前に名を呼んで欲しくてな。私が人の頃の名を探させたのだ。何せ誰も覚えておらんでな。丁度今しがたそれが分かったところだ。しかし文字しか分からんでな。音は私が適当に考えた。こうりゅうと言う。好きに呼べ」 「どんな字を書くんですか?」  その人は扇子で中空に文字を示すが、良くわからない。 「書くものを持っておるか?」  響がいいえと答えると、その人は少し待てと、木戸の中へ消えた。  暫く待つと、蒔絵の見事な箱を抱え戻ってきた。箱には硯や筆が入っている。紙を広げ、静かに墨を磨る様子をじっと眺めた。  何て綺麗なんだろう。 その人は細い筆をさらさらと紙に滑らせる。渡された紙には「煌隆(こうりゅう)」と。 「煌隆……」 「……もう一度」 「え?」 「もう一度」 「煌隆、さん?」 「さんなどいらぬ。呼び捨てで構わん。もっと呼んでくれ」  何度も呼ばされ、その人──煌隆は何度目かに満足気に息をついた。 「お前が呼ぶとなんと美しく響くのか」  響も同じことを感じていた。  煌隆が自分の名前を呼ぶと、それは特別なもののように聞こえる。 「ふむ、一つ満たされれば次の欲が顔を出す。響、近くへ。お前に触れたい」  響は言われるままににじり寄る。煌隆は手を取り、響の指に嵌まる金細工の指輪をそっとなぞる。 「嵌めて来てくれたのか」  実はこれも返そうと思って、ポケットに入れると壊してしまいそうだから指に嵌めていただけの事。 「忘れて行ったのかと思って」 「私はやったつもりだったが」 「こんな綺麗なもの、貰えません」 「返されても私はいらん。それはもうお前の物だ」  言いながら煌隆は響の頬に手を添える。  その手は愛しそうに優しく頬を撫でる。響も漆黒の布の下から手を差し入れ、煌隆の頬に触れる。 「どうして顔を見ちゃ駄目なんですか?」 「決まりなのだ。時が来るまで絶対にお互い顔を見せてはならん。それに私は顔を隠さねばここへは来れん。お前が生身では門を潜れぬのと同じだ」 「煌隆は偉い人なんでしょう? 決まりを変えたりは出来ないんですか?」  煌隆は響の顔から手を放し、自分の頬に添えられた響の手を包む。 「決して変えられぬものが幾つかある。これもその一つ。だが響よ、お前は忘れているが昔、互いの顔を見ている」 「え? そんな覚え、全くないです」  こんな時代錯誤な格好をした人を見れば、忘れる筈はなさそうだが。 「その時のお前はまだ幼かった。忘れているのは仕方ない。やはり門外から来ていたからな」 「小さい頃に会ってる? でも昔は病気で死にかけてたし……」 「そう。だからお前に巡り会う事が出来た。その頃お前の魂は不安定で、度々こちらへ迷い込んできていた。何度目かにお前は屋敷へ入り込み、そこで初めて会った。いつも帰らぬと駄々を捏ねて手を焼いた」 「全然覚えてない……」  そんな昔から常世に行っていたなんて。いや、当時はいつも生死の境をさ迷っていた。常世があの世と言うならば、何度か足を踏み入れていてもおかしくはない。 「しかし一度だけお前は門を潜ってこちらへ来た。その時に交わした約束をお前は忘れてしまっているようだな」  煌隆は、生身の体では門を通れないと言った。響が明日をも知れない命だから会えたと言った。松山老人は門外からは魂だけが常世へ行くのだと言った。  松山老人は死後、常世で転生を待っていたと言った。  煌隆の言い方からして、常世にも禁門があるようだ。二人の言う門がそれを指しているのだとしたら。  正式に禁門を潜る事が出来るのは、まさか。 「お前が自ら約束を思い出すのを待っている。大事な約束だ」  煌隆は響の手を頬から離し、ふわりと額を撫でた。やがて夜明けが来るので眠るようにと布団へ促す。 「待って、聞きたい事が沢山あるんです」 「私も話は尽きん。もっと話していたいが、私は陽があるうちはここには居れぬ。こちらの夜はなんと短い」  小さく溜め息を落とし煌隆は静かに立ち上がり、蝋燭を消して木戸を開く。  行ってしまう。  響は煌隆の姿を目で追うが、もう夜の闇に溶けて輪郭しか見えない。するすると衣擦れの音ももう聞こえないが、まだ気配はそこにある。 「煌隆……また、来るから。あんまり待たせないうちに、必ず」 「……ああ、楽しみにしている」  煌隆は一度響の傍に戻ってくるとまた名残惜しそうに額を撫で、何度も振り返り木戸の向こうに消えた。  閉ざされた木戸を暫く呆然と眺め、響は寝返りを打って目を閉じる。前回はすぐに寝付いたが、今度はなかなか眠れない。  胸を締め付けられるような痛みで苦しくて眠れない。  もっと話していたかった。もっと声を聞いていたかった。もっと触れていて欲しかった。もっと触れていたかった。  ああ、一体自分はどうしてしまったのだろう。はじめは巫女を断りに来ただけだったのに、そんな事はもうどうでも良い。  涼との約束を破って、二度も一人で来てしまっているのに、煌隆と同じ時間を過ごせる事が嬉しくて、楽しくて、幸せだと思うなんて。  神社に来てから、どこかおかしくなってしまった。  こんな鬱蒼とした場所で、こんな夜中に得体も知れず顔も分からない人との会話に興じ、それが楽しい等と。  どう考えても異常な事なのに、これが自分の正しい位置だと感じるなんて、絶対におかしい……  響は自分のからだをきつく抱き締め、無理矢理眠りについた。

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