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五 ⑤

 その夜、響は夢を見た。いつものように目覚めればすぐに忘れてしまうものではなく、ところどころ覚醒しても覚えていた。  ──響は目の前の、三つ頭がある犬のような動物の彫刻を見ていた。頭の先から足の先まで黒の衣を纏った人が扉を重そうに開くのを気味悪く思いながら待っていた。  そこから伸びる石畳の一本道を歩いて行くと、突き当たったところの建物に行列が出来ていた。行列は老若男女様々で、赤ん坊も混じっている。振り返れば、既に固く閉ざされた扉は闇に溶け込み朧気に映る。  先へも行けず引き返すも出来ず、とりあえず行列の後ろについた。  何の行列かも分からず並んでいるうちにも、響の後ろは一人二人と行列が伸びていく。  暫くすると着物に似た服を纏った女性が中から駆けて来て、響を行列から引っ張り出し、大急ぎで列の横を響を連れて抜ける。  ここで場面は切り替わり、響は広い座敷で毬を転がし遊んでいる。開け放たれた襖の向こうには広い縁があり、外は紅葉の綺麗な広大な庭園。響はサッカー宜しく思い切り毬を庭園に向けて蹴った。  丁度縁を歩いて来た派手な人が庭園に下り、遠くに転がった毬を拾い、微笑んで響に渡してくれた。その人の髪は地に付く程長く、着ているものも纏う雰囲気も、派手だがふわりと優しい印象。  響の目線に合わせ膝を折り、額を撫でる。すると響は唐突に思い出す。この広い屋敷でよく、この人が遊んでくれていた事を。 「そうか、大人になれなかったか……」  その人は悲しげに呟くと、長い睫の瞳をふせる。 「一つだけ、お前を助ける方法がある。お前は私をどう思う?」 「……」  これを何と言ったか思い出せないが、目の前の人は嬉しそうに笑い、優しく響の手を握ったからきっとその人が喜ぶような事を言ったのだろう。 「約束しよう。ならばその時が来るまで、今一度両親の元へ帰り、待っていろ」 「分かった、絶対だよ。約束したからね」 「ああ、必ず。だがその時お前の気が変わっておらねば良いが」 「大丈夫だよ。だって、一番だもん。変わりっこないよ」  その人はまた嬉しそうに笑い、響の名前を聞く。どんな字を書くかも聞かれたが、その時響は答えられなかった。ずっと病と闘っていた響は、字が書けなかったから、自分の名前を音でしか知らなかった……  目を覚ました響は布団に入ったままで夢を反芻した。幼い頃の夢で、話していたのは。 「煌隆……?」  あの姿、雰囲気、声、話し方、確かに煌隆だった。  目の前がちかちかして、頭の奥がじくじくと疼く。涼の家であの本を読んだ時のように、吹き出すとまでは行かないが遥か彼方に忘れた記憶が溢れ出す。断片的な映像として頭の奥から溢れたそれらは、今見た夢と同じ。 夢は過去の出来事を再生していたのだろうか。  約束。  確かに何か約束をした。思い出した。煌隆と幼い頃何か約束を交わした。だがその内容まではまだ思い出せない。  煌隆と接触する度、塵程も覚えていなかったものを少しずつ思い出して行く。忘却は異世界だったのに、思い出してみれば突然確かな現実になる。  幼い頃常世で煌隆と会っていた。当時はそこがどこだか分からなかったが、今になってみればそれは明らか。  煌隆は顔を隠していなかったが、残念ながらその顔はほとんど覚えていないらしい。 「……やっぱり、昔一度死んだ時に会ったんだ」  響は、常世の禁門は死者しか通れないと考えた。  恐らく、あの三つ頭の犬が彫られた門がそうだろう。幼い響が煌隆に撫でられそれまで忘れていた常世での出来事を思い出したのはきっと、死んでしまったから。  朝食と桶を持ってきた松山老人にそれを訊ねると、その通りだと言い難そうに答えた。 「門を通れるのは、高官の他は儂のように現世に住まう常世の者と、肉体との繋がりの切れた死者の魂だけなのですじゃ」  煌隆も禁門を潜る事は出来ないらしい。やはりあの木戸は常世に繋がっていて、そこからしか現世には来れず、行動できる範囲は境内だけだとか。  面倒な仕組みだな。  響は朝食を済ませ、布団を畳む。ふと、煌隆が座っていた座椅子の隣にぽつりと置いたままにされている箱を見る。箱は相当使い込まれているようだが、手入れがきちんとされていて金の蒔絵が輝いている。  その硯箱の下敷きになっていた紙を広げる。それは煌隆が書いた彼の名前。美しい文字。昔習字を習った事があったが、当時手本にしていた先生の字もここまで綺麗な文字ではなかった。  響はそれを小さく折り畳み、ポケットに入れたままにしていた手形に押し込んだ。

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