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五 ⑧

 家に着くなり自室に掛け上がり、鞄を放り投げて急いで着替える。机にしまっている手形をポケットに押し込んだら、懐中電灯を手に玄関を飛び出す。  畑に居る母に、涼と出掛けると告げて走って山を登る。  小さな鳥居の並ぶ入り口についた時には汗だくになっていた。  涼はまだのようで、携帯を取り出す。ここはまだ電波が入るようで、涼に電話を掛ける。早く来るように言うと、それから五分程で涼が走ってくる姿が見えた。 「何だよそんなに急いで」  慣れた足取りで山を登る響の背中に声を掛ける。本当に何度か一人で行っていたのだと、涼は少し歯痒い。 「……早く会いたくて」 「誰に?」 「……神社の本殿で話す人。聖が神社で見た幽霊」  実際には幽霊ではないが、あの世から来ると言う意味では幽霊みたいなもんだ。  涼は色々聞きたい事があったが、早足で登る響にかろうじてついていくのが精一杯で、それ以上話す間も無く巨木に埋もれた鳥居が見えた。  鳥居を潜ると槍を持っていた松山老人が槍を投げ捨て駆けて来る。 「響殿! お待ちしておりましたぞ!」 「うん……オレ、すぐに準備するんで、涼を頼みます」  松山老人が響の後ろでぜいぜい肩で息をする涼に気付くと、ほう、ほうと髭を撫でて社務所へ引き摺って行った。  社務所の裏へ行くと、五右衛門風呂が外に置かれているだけだった場所に小さな小屋が出来ている。小屋は社務所にくっついていて、まるでこぶのように真新しい木の色が浮いている。小屋の外には薪が山積みされていて、そこにかまどとドラム缶を再利用した貯水槽のようなものが見える。  小屋の周りをうろうろしていると、社務所の裏口から出てきた松山老人が満面の笑みで説明してくれた。 「今涼に食事を作らせとります。どうです、これから寒くなりますのでの、体を冷やさぬよう風呂場を増設したのです」  松山老人はいそいそと湯を沸かしに掛かり、響は一度社務所に入り風呂場へ回った。  風呂場はなかなかに凝った作りをしていて、旅館の温泉のような風情がある。  狭い板張りの脱衣場から風呂場へ入ると、床は石が敷き詰められていて、隅に桶と手拭いが用意してあり、そこで体を洗う事が出来る。  浴槽は水に強く香りも良い檜のようで、小屋自体も水湿に強い木材を選んであるようだ。壁から突き出ている竹の蓋を松山老人の合図で開けると、勢いよく熱いお湯が流れてきた。  丹精込めて作られた風呂場をもっとゆっくり堪能したいところだが、あまりのんびりしていられない。  急いで風呂から上がると響の服は消えていて、かわりに浴衣と薄手の半纏が置かれていた。ますますもって旅館のようだ。  響が居間へやって来ると、既に食事が出来ており、響は早速箸を取る。 「この浴衣はお爺さんが?」 「さよう、何せ退屈でしてな。前から縫っておったのです。陽が落ちたら半纏を着なされ、山の夜は冷えます故」  さて、二人のやり取りを見ながらもそもそと食事を摘まむ涼。聞きたい事も突っ込みたい事も山程あるが、松山老人に響が本殿に入るまで黙っていろと言われてしまった。  何となく気まずい響も、ちらりと涼を見ただけで急いで食事を済ませた。 「じゃあ、お休みなさい」  食事を終えた響が布団を抱えて本殿に入ると、すぐに鍵が掛けられる。もう鍵は必要ないと思うが、松山老人曰く涼が勝手に開けては大変だからとの事。  響は布団も敷かず、急いで蝋燭に火を灯す。どうやらこれが合図らしい。  少し待つと、かたりと木戸から乾いた音が響く。  煌隆が静かに座椅子に腰をおろす迄待ち、響は正面へにじり寄り深く頭を下げた。 「煌隆、ごめんなさい、必ずと言ったのに、待たせてしまって……」 「良い、面を上げろ」  響の手を取った煌隆の手に、ぱたぱたと雫が落ちる。 「気に病むな。私は怒ってなどおらぬ。少しばかり、そう、淋しかったが、お前がまた来てくれて嬉しいばかりだ」  煌隆は響の顔に手を伸ばし、手探りで涙を拭う。それまで響は自分が泣いていた事に気が付かなかった。  くすりと笑う声が漆黒の布の下から聞こえ、安堵した響は途端に身体中酷い疲れが襲い、重い頭を支えきれず煌隆の胸に額をつける。  煌隆はそれを払いもせず、優しく頭を撫でる。  ふわりと金木犀の香りが響を包む。 「どうした?」 「ごめんなさい、急いで来たから凄く疲れて……」  頭を起こそうとすると、煌隆はそれを引き留め響を寝かせ、頭を自分の膝に乗せる。板張りで少し体が痛むが、響は膝の心地よさに少しばかりうとうとし出す。 「楽にしろ」  見上げた顔の、漆黒の布の隙間から僅かに見える口許が微笑んでいる。 「話したい事、沢山あったんですけど、煌隆の顔、見えないけど、見たら、全部飛んでいっちゃって……」 「私もだ。どうした、眠いのか?」 「うん……折角、会えたのに……」  煌隆に優しく頭を撫でられていると、眠気はどんどん強くなる。煌隆は目を擦る響を起こし、自分の座椅子に座らせる。  畳んだままの布団を敷き始め、響は意外に思いながら眺める。  自分で布団とか敷かなそうなのに。  布団を敷き終えると煌隆は響を抱え、静かに布団に横たわらせる。 「布団に入ったらすぐに寝てしまいます」 「眠るまでで良い、お前の声が聞ければ満足だ」  煌隆は響の隣に座り、額を撫でる。 「……小さい頃もずっと、こうやって撫でてくれましたね」 「思い出したのか」 「少しだけ。約束はまだ思い出せないけど……あの時死んでしまったのを、煌隆が助けてくれたんですね……」 「そう、死者の列に並ぶお前を見付けて、居ても立ってもおれなかった……」  もう瞼が酷く重く、目を開けていられない。まだ話していたいのに、睡魔は待ってはくれない。 「……煌隆、ありがとう……お陰でこんなに長く……生きてこれた……」  ああ、もう駄目だ。あまりの眠気にもう自分が何を言っているかも分からない。  意識は遠く、額を撫でる煌隆の手だけが心地よい。もう夢か現か、蝋燭の灯りも見えない。  煌隆は微睡む響にあの日と同じ質問をした。 「響、お前は私をどう思う?」 「……好きだよ、いつも遊んでくれて……優しくて……大きくなったら、お兄さんと結婚するんだ……」 「響、私は約束を守りに来た。響の気は変わっていないだろうか?」 「……変わってないよ……だって、一番だもん……ずっと……」  すぐに寝息を立て始めた響の額に煌隆は漆黒の布越しに口付け、ここに忘れていた硯箱を開ける。  さらさらと簡単に書いた手紙を響の枕元に置き、音を立てないように静かに木戸を閉めた。

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