27 / 57

六 ①

 年寄りの夜は早い。結局ろくに話も出来ず、松山老人はさっさと床についた。退屈になった涼は社務所を出て、月明かりと石灯籠の灯りだけの薄暗い境内をぶらぶらしていた。  神社を囲む森は鬱蒼としていて、所々に覆い被さる巨木の枝に、今にも呑み込まれてしまいそうだ。  よく祖父は独りでこんな淋しい神社に住んでいるものだ。  鳥居から真っ直ぐに伸びる石畳を挟んで、社務所の向かいにある手水で水を飲む。手水の水は飲んではいけないと聞いた事があるような気がするが、ここは普通の神社ではないからいいかと勝手に判断した。  手水の裏にはこんな山奥に似合わない彼岸花が群生していて、昼間ならば綺麗なのだろうが、夜中に見るそれは少し気味悪く映る。おまけに群生しているのはその一部だけで、意味ありげに揺れる花から目をそらした。  本殿の側を通り掛かると、ふわりと金木犀の香りが鼻を撫でる。時々響にまとわりついていたあの匂い。  見上げると本殿の格子窓から橙の光が漏れている。  涼は社務所から椅子を持ってきて格子窓を覗き込む。香りはここから漂ってきているようだ。  何だあの映画みたいな派手な奴は。  中では背丈程も長い髪で、束帯とも着物とも言い表せない服を着た派手な──顔を隠しているので断言は出来ないが、漏れ聞こえる声からして男だろう。が、眠る響の額を撫でている。 あれが聖の見た幽霊とやらか。  男が何か響に問い掛けると、響は嬉しそうに舌ったらずの幼い口調で答える。  好きだよ、お兄さんと結婚するんだ。  男が布越しに響の額に口付けるところまで見て、涼は音を立てないようにそろりと本殿から離れた。  椅子を持って逃げるように社務所へ戻る。椅子を土間に適当に置いて、以前泊まった時と同じ奥の客間に引き込む。  苛々する。  結婚だって? 約束?  男同士で結婚出来るわけないじゃないか。あの男、さも当然のように響に触れて。響だってあいつが男だと分かっているだろうに、あの嬉しそうな表情。  それに以前は無かった、響の指で光る金の指輪。大方あの男から貰ったものだろう。  あの金木犀の香りを嗅ぐと、苛ついてしまう理由がわかった。 「おお、早いの、涼。おはよう」 「……おはよ」  時刻は朝の六時過ぎ。奇跡的な時間に目が覚めた涼は、顔を洗って朝食を作る松山老人を手伝う。 「今日は学校か?」 「うん、けど行かねぇ」 「なんじゃ、理由によっちゃ叩き出すぞい」 「……なぁじいちゃん、守りの者について詳しく教えてくんない?」  松山老人は絞っていた高菜の漬け物をうっかり落としそうになった。 「ほう、継ぐ気になったか?」 「まぁそんな感じ」  継ぐ継がないは別として、この神社の事や、巫女の事、何より夕べの男について詳しく知りたい。守りの者の役目や、死んだ筈の祖父が何故ここに居るか等はそのついでで良い。  二人は出来上がった朝食と桶を持って、本殿へ向かった。  響は既に起きていて、何やら手紙らしき紙を広げている。その表情は柔らかく嬉しそうで、部屋に充満する金木犀の香りと相まって涼の胸に夕べより酷いむかつきが襲う。 顔をしかめてしまいそうになるのをぐっとこらえ、朝食を差し出す。 「よう響! 何だにやにやして」  響は手紙をサッと懐にしまう。明らかに見られたくない様子だ。ちらりと涼を見ると、すぐに目線をそらし適当に相槌を打って誤魔化されてしまう。 「俺布団片付けっから、さっさと食えよー」  あくまで素知らぬ振りを保ちながら、朝食を摘まむ響に話し掛ける。 「お前今日学校どうすんの?」 「今夜もここに居たいから今日は行かない。後で電話借りて親と学校には連絡するから、悪いけど一人で山下りてくれるか?」 「俺も行かねーぞ」 「え、何で」  響は箸を止めて涼を振り向く。驚いたと言うより、意図がわからなくてキョトンとしている。 「じいちゃんと話があるんだ。いいだろ別に、一日位休んだって」  響は何の話か察しがついたらしく、納得した様子で食事に戻る。  きっと、お前が想像してる話とは違うけど。  涼は布団を抱え本殿を出て、一旦社務所に置いてから膳と桶を下げに本殿へ戻る。途中境内に出てきて空を仰ぐ響を見掛けたが、黙って後ろを通り抜けた。  本殿から出ると社務所から出てきた松山老人に取りあえず境内を掃除しているよう言われ、松山老人は響を連れて社務所へ引っ込んだ。  一度裏口から膳と桶を置きに社務所へ戻り、畑の横にある薪置き場から竹箒を持って境内へ出る──振りをして、風呂場を通り過ぎ社務所の更に裏へ回る。  夕べ境内を散歩したので大体の位置関係は把握出来ていた。  着いた窓の下にそうっとしゃがみ込み、耳に全神経を集中させる。  立て付けが悪く、隙間の多い窓から二人の話し声が漏れてくる。 「何ですか? これ。前に常世で着せられた服に似てますね」 「主上から響殿にぷれぜんとだそうですじゃ。それは寝間着なのですがな、夕べ主上が儂の縫った浴衣は地味だと仰られたそうで……」 「ああ、手紙に書いてありました。え、て言うか次からはこれを着て来いって事ですか?」 「察しが良い」 「……女物に見えるんですけど」 「まぁ、まぁ、細かい事は気になさりますな。儂が着付けますのでの、早速今夜着てみましょう」 「ピンクじゃないだけマシかな……」  涼はそろりと首を伸ばして中を覗く。響が淡い黄色の着物に似た衣服を広げている姿が見える。床には黄緑の帯。    へぇ、主上とやらは趣味は良いらしいな、響に似合いそうだ。  前に響が着ていたあの変な服も、あの男が選んだのだろうか。  それより、今響は何て言った? 常世と言う単語が響の口から出た気がする。 「さて、儂は涼の奴と話がありますのでの、何も無くて退屈じゃろうが、響殿は散歩でもしていて下され」  顎に手を添え頭を捻っていると、松山老人が立ち上がる音が聞こえ慌てて境内の石畳に転がり出た。  これと言って落葉もゴミも無い境内、涼は石畳に乗った砂を適当に掃き散らす。すぐに松山老人と響が社務所から出てきて、涼は何食わぬ顔で声を掛ける。 「じいちゃん! 掃くとこなんかねーじゃん!」 「塵を掃くんじゃのうて己の心を掃いて清めるのじゃ!」 「意味わかんねーよ! 修行僧かよ!」 「ここは神社じゃ、僧はおらん!」  二人のやり取りに響は小さく笑い、涼の頭を小突く。 「オレ暇だし、やっとくから。涼はお爺さんとゆっくり話して来いよ」  唇を尖らせて見た響の顔は、涼の好きな呆れた笑顔だった。  ……嬉しそうな顔も、楽しそうな顔も、その呆れ顔も、俺にだけ見せていれば良いのに。  響にまとわりつく金木犀の香りにまた不愉快な気分になりながら、涼は箒を押し付け松山老人の後を追った。

ともだちにシェアしよう!