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六 ④
翌日、響が起きた時にはもう涼は山を下りた後だった。一緒に下りようと思っていたのに、遅刻を気にしたのだろうか? 今更と言う気もするが。
「それが、儂が起きた時には既にもぬけの殻でしてな」
そんなに急いで、まだ陽も昇っていなかっただろうに。
まだ完全に覚醒していない頭でぼんやり思う。昨日も涼は様子がおかしかった。確かに近頃涼には隠し事ばかりしていたが、まさかあれ程激昂するとは思わなかった。
やっぱり、きちんと話さなくちゃな。
それが現実離れしていても、信じてもらえなくても。神様と結婚するだなんて、自分でも正直意味がわからない。けれど、実際に一度死んだ筈の祖父の姿を見た涼なら、あるいは。
いや、信じてもらえなくてもいい。しかも婚約した神様、煌隆は男だ。馬鹿にしてくれていい。信じてくれなくていい。気持ち悪いと罵ってくれていい。
その方が、現世に未練がなくなる。
まだ煌隆から詳しく聞いたわけではないが、煌隆と一緒になるからには現世から離れる事になるのだろう。
響は山を下りる足を止め、木々の隙間から覗く空を仰ぐ。
空も、風も、匂いも、山はもうすっかり秋で、幼い頃約束を交わした日、毬を蹴った先の庭園で鮮やかに色付いていた紅葉を思い出す。山の其処此処で色付く紅葉も、今年は美しく染まる事だろう。
『紅葉の美しい晩に迎えを寄越す』
そう、煌隆の手紙には記されてあった。
昼前に学校に着いた響はすぐに涼の姿を探したが、学校のどこにもなかった。昼休みは勿論、午後の授業が始まっても涼は現れなかった。
電話も出ないしメールの返事もない。
家へ寄って帰ろうと授業が終わって急いで荷物をまとめ早足で教室を出ようとしたところで華に呼び止められた。
「すっかり忘れてた。涼から伝言。大河から金木犀の匂いが消えるまで会わないってさ。何の事?」
華は響に鼻を近付けくんくん動かした後首を捻る。響もシャツを引っ張って嗅いでみる。匂いは残っていないと思うが、鼻が麻痺しているだけなのかもしれない。
「……金木犀の匂い嗅ぐとイライラするんだってさ」
厳密に言えばそれは純粋な金木犀の香りではなく、煌隆の匂い。
神社で苛々していたのも、その匂いが原因なのだろうか。
「なぁじいちゃん、ここに居る時の響ってさぁ、幸せそうだよなぁ」
涼は午前中に登校し、響が来る前に早退してまた神社に一人で来ていた。
境内でぼんやり星を見上げ、石灯籠の火を確認する松山老人に呟く。松山老人はちらりと涼を見て、作業を続けながら同じく呟くように話す。
「……涼や、儂ら守りの者は巫女に深入りしてはならん。お前と響殿が友人であったのも、お前が守りの者で、響殿が巫女であったからじゃ。見事お前は響殿をここまで導いた。それ以上は決して踏み込んではならん。守りの者が巫女の枷になる事だけはあってはならんのじゃ」
孤独に神社を守る者の目には、訪れる巫女はそれはそれは美しく映る。美しい巫女の身の回りの世話をし、昼間は会話を重ね、巫女が山を下りればまた孤独に胸は軋み、再び巫女が訪れる事だけを心待ちにする。
やがて孤独を埋めるその人は、唯一の人となる。
過去に幾度か、そうして駆け落ちた巫女と守りの者があった。
「守りの者は、孤独でなければならん」
「……じいちゃん気付いてたのかよ。死に損ないのモーロクじじいじゃなかったんだな」
「たわけ。お前が本殿を覗いておったのを儂が気付いておらんとでも思ったか。すぐにピンときたわい」
星は雲に隠れ、今夜は月もない。
石灯籠の光の届かない漆黒がいやに濃く重い。
点検が終わった松山老人に、新しい蝋燭を渡す。二人は本殿に入り、短く燃え尽きた蝋燭を交換する。
本殿では口を聞かないよう言われ、涼は口をつぐみついでに鼻も押さえる。未だに部屋に残る金木犀の匂いにまた胸がむかつく前に。
作業が終わり境内で深呼吸をする涼の頭を松山老人は乱暴に撫でる。
「本殿を覗いて、お前が望むものは見えたか?」
「いんや、やめときゃ良かった。知らないまんまがよかったなぁ……俺って何だったんだろ。ただの道案内じゃねぇか」
悔しいのは、響が笑う相手が自分以外の誰かだからじゃない。ひょっこり現れた得体の知れない誰かだからじゃない。神様だろうが何だろうが響が幸せならそれでいい。
ただその相手が、男だったと言う事。
響が自分以外の男と幸せそうに抱き合い、唇を重ねる姿なんか、見たくなかった!
「畜生……」
胸に渦巻き出口のない想いを、松山老人は秘めたままにしておけと言う。
勿論、響にそれを打ち明けるつもりはなかった。しかしもう、いつ感情が爆発してしまうか分からない。
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