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十 ①
響はゆっくりと顔を上げ、正面の簾台に座る煌隆を見る。
心臓が壊れるのではないかと不安になる程どきどき喧しい。
胡座でゆったりと座る、美しく愛しい人。それは想像を遥かに超える美しさ。この世にこんな──あの世だからその表現は語弊があるが。こんなにも美しい人が存在するなんて。
長く艷やかな漆黒の髪、睫毛が長く切れ長の目、深い黒の瞳。微笑みを湛えた優しげな口許。透き通るような白い肌。思わず息を飲むその姿は、まるで一枚の絵画のよう。
神様だから綺麗なの? それとも、綺麗だから神様になったの?
煌隆はゆるりと立ち上がり、簾台を下りて響の正面まで来て膝をつく。響の頬を両手で優しく包み、深く吸い込まれそうな瞳でじっと見詰める。
「響……」
「煌隆……凄く綺麗……」
「響、お前も美しい。私の想像よりも遥かに。今までの誰よりも、美しい」
ああ、自分も煌隆に触れたい。今すぐその腕に抱き締められたい。現世では布越しでなければ出来なかった口付けも。
ふと、響の瞳を覗いていた煌隆が首を傾げる。少し眉をひそめ、頭の先から床に付く手まで、まじまじと見ていく。
響の唇を親指でなぞり、静かに言った。
「……男か?」
「えっ、そう、ですけど……」
煌隆は響の頬から手を離し、簾台に戻る。すぐに将極に御簾を下ろさせた。
響には何がなんだか分からない。突然煌隆はどうしてしまったのだろう。胸がざわざわする。
まさか、まさか煌隆は自分を女と勘違いしていたのでは? 顔合わせで初めて、男だと気付いたのでは?
御簾の向こうから、独り言のようにぶつぶつ言う声が聞こえてくる。
「……道理で、声も低く、抱いた時の体も固いと……胸元の膨らみが無いのは、そうか、男であったからか……」
次いで発せられた言葉に、響は目の前が真っ暗になった。
「将極……居室に送ってやれ」
いつもは表情を変えない将極が、少し眉尻を下げ響の肩を叩く。だらりと立ち上がりながら響は煌隆に言うべき言葉を探したが、胸ではあらゆる感情が渦巻き、そのどれも言葉にはならなかった。
響は将極に支えられ、ふらふらしながら煌隆の部屋を後にした。
だって、まさか、煌隆が自分を女と勘違いしているとは思ってもみなかった。
もう休むかと遠慮がちに将極に問われ、ゆるゆると首を振り、響は寝室隣の居室へ連れて来てもらった。
こちらは板間の部屋で、卓や椅子、窓辺には花が活けてある。格子の窓から空を覗けばそこは漆黒が広がるばかり。そうだ、こちらには月は無いのだった。
椅子に深く座り、体を弛緩させぼんやり窓の外を眺める響の横顔を将極は居たたまれない思いで見た。
「媛响様、お茶など淹れましょうか?」
すぐに反応は無かった。
響は外を見たまま力なく答える。
「……うん、そうですね」
将極は棚に置いてある鈴を三度鳴らし、女官を呼ぶ。すぐに部屋に顔を出した女官に茶器の用意を頼み、視線を響に戻す。響はまだ、空を眺めている。
茶器を持ってきた女官をすぐに下がらせ、将極は黙って茶を淹れる。
本来ならば響の事は秌に任せ、将極は煌隆の元についていなければならないが、どうしても響の様子が気になって煌隆の部屋へ戻れない。
将極が茶を淹れる間もずっと、響は黙って空を眺める。
湯飲みを響の正面に差し出すと、響は部屋に来て初めて体を動かした。
「……将極さん、煌隆はオレが男だからがっかりしたんでしょうか」
掌に湯飲みを包み、くるくる回しながら力無い声で続ける。
「考えてみれば、煌隆が勘違いしてるんじゃないかって、いくらでも気付くきっかけはあったんですよね。煌隆がくれる服が女物だったり、男相手に結婚って言葉を使ったり。でも、常世の神様がする事だから、きっと現世の常識で考えちゃ駄目なんだろうなって思ってて」
ぽとりと、湯飲みに雫が落ちる。
伏せた顔から次々雫が落ち、衣に染みを広げていく。
「……何でオレ、男に生まれたんだろう」
将極は俯く響の肩にそっと手を乗せる。見上げた響の顔は悲しげでも悔しげでもなく、僅かに眉を寄せただけ。ただ瞳からは次々涙が溢れ、瞬きをすると頬を伝って零れる。
その淡白な表情はかえって響の中の喪失を物語っていて、胸が軋んだ。
「某には、主上の胸の内は存じ得ません。ですが、これだけは。主上は媛响様を最後にすると仰っておいででした。某の目から見ても、媛响様を愛しておられるのが分かります。だからきっと、媛响様の御心を裏切るような事はなさらない筈です」
将極は涙の落ちた湯飲みを響の掌からそっと受け取り、新しく淹れたものを差し出す。
「きっと少し驚かれただけです。だから媛响様は今まで通りにしていれば良いのです」
これ以上響が、悲しみや不安に呑み込まれないよう、将極は響の前に膝を付き、そっと手を取り慣れない笑顔を見せる。
響は驚いて目を少し見開き、そのぎこちない笑顔に顔を僅かに綻ばせた。
「ありがとう、将極さん。もう、大丈夫です。オレも、少し驚いただけだから……」
もう、煌隆のところへ戻ってあげて下さいと、差し出された手拭いで涙を拭きながら将極に言う。
「何かあったら秌さんを呼ぶから、行って下さい」
中々足を動かさない将極に言って笑顔を見せると、将極は渋々、部屋を出た。
響は茶を啜り、再び漆黒の空を見る。
将極はああ言ってくれたがもし、煌隆から拒否されてしまったら、自分はどうしたらいいのだろう。
何もかもを置いて、現世を発った。きっともう向こうでは自分は死んだ事になっている。今更戻る事も出来ない。それに、体も既に常世のものになってしまった。煌隆に受け入れて貰えなかったら、一体どうして生きれば良いだろう。現世にも常世にも、響の居場所はなくなってしまう。
愛しい人と一緒になれないならば、いっそ……
響は、抽斗を開け、こちらに持ってきていた手形を取り出す。皺を伸ばし、中の紙を広げる。手形か紙に残っていた金木犀の香りがふわりと鼻を撫でる。
金木犀の匂いに包まれれば、まるで愛しい人に抱擁されているようで。
「……嫌だ……嫌だよ、煌隆……お願い、嫌いにならないで…」
まだはっきりと拒否されたわけではないが、響の胸を黒い不安がどんどん侵食して行く。
「こんなに、こんなに好きで、幸せなのに……お願い、ずっと一緒に居させてよ……!」
相手が神では祈る対象も無く、ただひたすら、将極の言葉を頭の中で繰り返した。
気がつけばまた涙が溢れ、今度は声を殺して泣いた。
愛しい人に拒絶されてしまうかも知れないと言う思いが、こんなにも恐ろしいものだとは知りもしなかった。だって、涼の時は一緒になる事さえ考えていなかったのだから。
当たり前のように繰り返されていた煌隆の言葉に、もっと疑問を持つべきだった。そうすれば、こんなに苦しくなる前に終わっていたかも知れないのに。
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