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十 ③
翌朝響が目を覚ますと、一番に自分の横で寝息を立てる煌隆の端正な寝顔が目に入った。
「煌隆……何で?」
こんなに冷たい畳の上で、布団も被らず。何より何故、自分の隣に。
いくら幾重に衣を重ねているとはいえ、これでは風邪を引いてしまうかも知れない。自分の布団を掛けてやろうと響が起き上がるため身をよじると、長い睫毛がそよぎゆっくり瞼が開かれた。
「……響、おはよう」
「え、お、おはよう」
すぐに起き上がった煌隆は欠伸を一つし、襖に向かって声を掛ける。
「将極、どうせその辺に居るのだろう。すぐに響の衣を用意させろ。……解るな?」
襖向こうから小さく了解の声が聞こえた。
立ち上がり、床に放ったままにしていた響の衣を適当に衣桁に掛ける煌隆を目で追い、何故自分の衣があんなところにあるのか疑問に思いながら上体を起こす。見れば響が纏っているのは襯衣だけだった。
前にも寝ている間に衣を脱がされていた事があった。煌隆が脱がせたのかと口を開いた瞬間、無遠慮に開け放たれた襖の音と、やたらに陽気な秌の声に開いた口をすぐに閉じた。
「おはようございます、主上、媛响様。お召し物をお持ち致しました。寒かったでしょう。主上は外でお待ち下さいな」
「何だ、私が居ては都合が悪いのか」
「夕べ湯浴みされなかった媛响様の下帯もお変えしますが?」
それを聞いた煌隆はちらりと響を見てすぐに目をそらし、口を真一文字に結んで出て行った。その後すぐに襖の向こうから苛々と叫ぶ声が。
「将極! 煙草だ!」
そうだ、男の裸など見ても面白く無いだろう。響はこっそりため息を落とし横目で煌隆を見送った。
流石に下着は自分で変えた響は、てきぱきと衣を着付けられながらぼんやり白い空を見ていた。
出来上がった響の体を姿見に向け、秌が満足気に鼻を鳴らす。
「いかがですか? 彩りに欠けますが良くお似合いです」
姿見に写された自分を見て、一瞬響の頭は理解が遅れた。いつものスカートのような裙ではなく袴で、袖もレース様ではなく金の刺繍のもの。これは、男物の衣?
「え、何で?」
何度も目を瞬く響の背に、煌隆の優しい声が届く。振り向くと、長煙管を指で支えた煌隆が襖の柱に凭れている。
「もう女物を無理に着る必要も無い。まぁ……民衆の目のある場では女物を着て貰わねばならんが。ん? どうした、気に入らんかったか?」
「いえ、気に入らないわけじゃないですけど」
煌隆が先を促したが、静静と現れた下女から朝食が整ったと報せがあり、すぐに柱に凭れる姿は消えた。
満面の笑みで促す秌に着いて、疑問が喉につかえたままの響も朝食の為内裏を出る。
途中の渡り廊下は、昨夜まで澄んだ風が通り抜けていたのに、屋根から欄まで、吹き抜けはぐるりと御簾に囲まれて窮屈になってしまっている。風で揺れ隙間が出来る事を防ぐためだろう、御簾はしっかり紐で結いつけられている。
何でも、響の着替えの間に大急ぎで拵えたのだとか。
先程の煌隆の言葉がちらりと頭に過る。
『民衆の目のある場では女物を』
では、屋敷内で唯一町から見えるこの廊下は女物を着ていない響を隠すために目隠しをした?
夕べ寝室での会話を全く覚えていない響は、煌隆の意図がわからない。男だと分かり女の格好の響を見たくないと考えれば合点が行く。男が女物の衣を纏う姿はさぞかし滑稽だったろう。だが大急ぎで渡り廊下を囲む程急ぐ事だろうか。響だけが、疑問に頭を捻る。
煌隆と隣り合わせで朝食を摂る間中、響の頭は思考が渦巻いていて、煌隆が何か話し掛けているのに全く気が付かなかった。
「響!」
「は、はい!」
呼び掛けにやっと気付いた響は肩を跳ねさせる。
「朝食が終わったら、庭を散歩しないかと聞いているのだが」
「え、あ、はい、したいです」
「そうか。まだお前はあの紅葉を見ておらなんだろう。見事な紅が散る前に、な」
それは幼い頃約束を交わした日に見た、あの紅葉。そうか、もうすっかり色付いている筈だ。何故煌隆が急にそんな事を言い出したの分からないが、自然を愛でるのは好きだ。こちらに来てまだ数日、何かとばたばたしていてゆっくり深呼吸する間もなかった。
それも後いくら続くかと、俯いた響の耳に柔らかい声。顔を上げれば、差し出された白い掌。
昨夜とは打って代わり響に優しく、良く笑顔を見せる煌隆の手を取り縁を下りる。すぐに離されると思っていたその手は響の手をしっかり握ったまま。
男と手を繋いで嫌じゃないんだろうか?
そんな事を考えて繋いだ手を見詰めていた響は、足元にひらりと舞い落ちた紅葉の葉を認めて顔を上げる。
そこには、息を飲む程紅に染まった庭園。こんなに染まった紅葉は現世でも見た事がなく、響はぽかんと開いた口を閉じるのも忘れ見入った。隙間に覗く空は常世独特の白。映える紅が眩しいばかり。
くん、と繋いだ手を引かれ、紅葉の下を歩く。ふわふわと路の外に敷き詰められた苔も、紅葉に倣って僅かに茶色がかっている。
少し歩くと紅葉に隠れてまるで存在が見えなかった枯山水の広場に出た。脇を通り抜け、細い川に掛かる橋から見下ろせば、それはまるで白銀に輝く水面。橋の先は四季折々の植物に囲まれた飛石が敷かれた小路。のんびり歩けばまだ朝なのに、秋の虫の音色。
庭園の広さに、美しさに、丁寧さに、言葉も無く感動の溜め息しか出ない。
ゆるゆると曲がる小路を抜けると、小さな東屋があった。そこで一息つこうと手を引く煌隆に抗いもせず並んで椅子に座る。
他より小高い丘に建つ東屋からは、屋敷から見渡せない庭園が一望出来て、この小さな東屋さえも緻密なものなのだろう。
屋敷や各部屋の印象からして、煌隆はあまり華美なものを好まないようだ。雅やかに意匠を凝らしてあるのは民衆が立ち入る事の出来る部屋だけ。その分この、広い庭園は隅々まで拘っているように思う。
「見事だろう。この庭だけは贅を惜しまず、手入れも怠らせないのだ」
響の考えを読んだかのように、煌隆は満足気に庭園を見ながら横顔で微笑む。響はこくりと頷き、庭園を見渡した後隣の煌隆の顔を見上げる。
視線を感じた煌隆は響の視線を絡めとり、ふわりと額を撫でる。
「ん? どうした」
「……あの、嫌じゃないんですか? オレと散歩なんて」
「嫌ならば初めから誘っておらん」
その質問に不思議そうに首を傾げた煌隆の手を響は少し力を込めて握る。煌隆もそれに応え、しっかりと握り返す。
響はごくりと唾を飲み、胸で渦巻いていたものをぽつりと吐き出す。
「……煌隆は、オレが男だったから、がっかりしたんでしょう?」
しとりと落ちた沈黙に、響は背中を丸める。
質問したのは自分なのに、答を聞きたくない。
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