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十 ④
「この東屋は私の専用でな。将極にも道を教えてはおらんのだ」
質問に答えず、また庭園の話に戻る。答えたくないのだろうか。
まだ背中を丸め俯いたままの響の頭に、煌隆は続ける。極優しい調子で。
「歴々の妻達も、この東屋の存在は知らぬ。連れて来たのは響、お前だけだ」
煌隆は体を響に向け、空いている手で俯く響の顎を撫で顔を上げさせる。絡ませた視線は、漆黒の布越しでも感じていたものと変わらない。
「まさかと思うが、響よ、お前は昨夜の会話を覚えておらんのか?」
「え……会話……」
会話と言われても、顔合わせの短い会話しか昨日はなかったはず。煌隆の一言で自分は居室に追いやられ、一人になりたい思いで将極も遠ざけた。泣き疲れると睡魔が襲い、それ以上何も考えたくなかった響は誰にも告げず隣の寝室で布団に突っ伏せば、すぐに眠ってしまった。
「ああ、やはりか。まぁ殆ど眠っていたようだったしな。響、今はちゃんと起きておるな?」
「勿論です」
「どうかな? 朝食の時はまだ寝ていたようだが」
煌隆は目を細め悪戯っぽく口角を上げてみせる。響はかっと顔が熱くなり、目をそらす。
「あれは、考え事をしてただけです」
「そうか。では、何も考えず良く聞け」
響はぎゅうっと唇を噛み締め、逃れる事の出来ない深い黒の瞳を見詰める。
現世で死に掛け、身体中が冷たくなった時と似た恐ろしい程の不安が、心臓を酷使する。
……不死で不変の体となっても、心臓は打つのか。
分離した思考でそんな事を考えながら、煌隆が次に紡ぐ言葉を待った。
聞くのが酷く恐ろしい。悪い事ばかり考える頭を振る事も出来ない。だけど、そこには僅かな期待もあるから耳を塞ぐ事も出来ない。
だって、響が男と知った今でも、額を撫でる手がとても優しいものだから。
煌隆は繋ぐ響の手を返し、金細工の指輪をなぞる。
「響、この指輪の話はしたな」
「はい。お母さんの形見だって。心に決めた人に、贈るって……」
ああ、そうか、これを渡したのは間違いだったと、返してくれと言うんだな。
煌隆の手をほどき、指輪を外そうとする響の手を温かい掌がやんわりと阻止する。
「そうだ。私はこれをお前にやった事を後悔した事はない」
「え……」
「全く……私の浅慮な言動も悪かったが、お前は存外、早呑み込みなのだな」
クックと喉で笑ったその仕草に、嫌なものは含まれていない。響は目を瞬かせ煌隆を見上げる。
「お前が男であろうが女であろうが関係無い。私の響に対する想いが、そのような些末な事で乱されるとでも思ったのか?」
「けど、煌隆、オレの顔見て明らかに動揺してたじゃないですか」
顔合わせはもっと幸せなものだと思っていた。緊張しかしなかった婚儀よりもずっと。新しい世界が始まるような、そんな気がしていたのに。
必死に言葉を紡ぐその口はわなわなと震え、声もそれに合わせるように頼りない。
「先程も私の浅慮だと言ったが……私は、己の間抜けさに言葉を失ってしまったのだ。それが響を不安にさせた事はすまないと思う」
「……間抜け?」
「私はお前が女だと勘違いして女物の衣を着せていたのだぞ。名付けも、男だと先に知っておれば”媛响”とは付けずに済んだのに。女物の衣はさぞ嫌だったろう、女の名を付けられ、屈辱だったろう。名は今更、変えられん」
「媛响って、女子の名前なんですか?」
「字がな。媛の字は女にしか使わん。姫と言う意味を持つ」
今度は視線を落とした煌隆の声が頼りなく小さくなる番だった。
「男だと気付いてやれず、本当にすまなんだ」
「なんだ……なんだ、そんな事だったんだ」
戦慄く声に煌隆が視線を戻せば、響の瞳からは涙が零れていた。しかしそれは悲しみから来るものではない。響の口許は微笑んでいるのだから。
「そんなの、ちっとも気にしません。煌隆がくれるものなら、女物の服だろうが女子の名前だろうが、全部嬉しい」
「お前は……っ、寝惚けていても起きていても、同じ事を言うのだな……」
煌隆は手を響の背に回し、ぐっと引き寄せきつく抱き締める。
金木犀の香りが身体中包み、煌隆の体温が支配する。聞こえる心音は少し早くて、響と同調してまるで二人の体がひとつになったよう。
「……煌隆、いい?」
体を離した煌隆の胸に手を付き、響は潤んだ瞳で見上げ指先で煌隆の唇にそっと触れる。響が何を求めているか察した煌隆は、右手を響の頬に添え、反対で腰を引き寄せる。
今度は邪魔な布越しに探る必要もなく、目を閉じた響の唇に軽く重ねる。
一度顔を離し、響を見ればうっとり頬を上気させ、瞳が物足りないとせがむ。
頬に当てた手を響の後頭部に回し、強く引き寄せ今度は互いの唇を強く重ねる。隙間さえ出来ないよう重なった唇は、まるで合わせ貝のように、ぴたりと馴染む。
柔らかな感触、熱い体温、金木犀の匂いに、まるでとても甘い果実のよう。
響は煌隆の胸に顔を埋め、ほうっと熱い息を吐く。
「良かった、オレ煌隆に嫌われたんじゃないかと思って、凄く怖かったんです」
「私が響を嫌う筈がなかろう……これも、お前が寝惚けている時に言ったな」
「今度はちゃんと、起きてる時に言って下さい」
「響、私は響を誰よりも誰よりも、死ぬ迄愛す。最も、死が訪れるかどうかは知らんがな」
響が煌隆をぎゅうっと抱き締めると、煌隆はやんわり響を押し離し口角を意地悪く上げる。
「さぁ、私は言ったぞ? お前はどうだ? 響よ」
途端顔が熱くなり、目を泳がせ俯こうとした響の顔を煌隆の手が包み、それを阻止する。
顔をちゃんと見て言えと。
漆黒の布に阻まれていた頃と違い、この美しい顔を見ながら言えば卒倒してしまうに違いない。
「そ、その、オレも……一緒です」
「駄目だ。ちゃんと響の言葉で聞かせて欲しい。手抜きはいかんな」
響はきゅっと唇を噛みごくりと唾を飲んで、真っ直ぐに見詰める吸い込まれそうな瞳をしっかりと見る。
「オレもずっと、それが永遠でも、煌隆をその、愛します……こんなにオレを夢中にするのは、煌隆だけなんです……」
とうとう最後は俯いてしまった響の額をそっと煌隆は撫で、そこに口付けをした。
「響、真愛しい。私の心をこんなに乱すのは、お前だけだ……」
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