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十 ⑤

 すっかり頭が湯だってしまい、ふらふら歩く響を支え煌隆は屋敷に戻ってきた。  響の手を引き縁に上げてやっていると、急ぎ足で来た将極が二人を見付けて僅かに安堵する。 「丁度ようございました。先程現世から手紙が届きました」  縁に上がった響の肩に手を掛け、自分の胸へ引き寄せた煌隆が手紙を受け取る。  将極は目を丸くして手紙を渡した格好のまま固まってしまった。響は将極の視線が痛く、離してくれと必死に煌隆の体を押してみたが、意外と力が強いようでびくともしなかった。 「松山老人が? 手紙を寄越す程急ぎの用があるのか? 松山涼が守りの者に就くのもまだ早いしな……」  抵抗虚しく、結局煌隆の傍らにぴたりとくっついたまま響も何となく蛇腹に広げた手紙を覗いた。覗いてからまずかったと視線をそらしたが、煌隆が響も読みやすいようにと手紙を響の胸まで下げた。  内容は、簡単に言えば響が現世に降りて来られないか、と言うものだった。  煌隆は手紙を元に戻し、将極に渡す。 「そうだな……后妃は二度と門を潜れぬ事になっておるが」  煌隆へ渡される手紙は一度将極が目を通すため、内容を把握していた将極は心得た顔で断る旨伝えると踵を返すが。 「待て。あの木戸なら通れるか?」 「は? ああ、はい、前例はありませんが通れるかと。まさか主上、許可なさるのですか?」 「うむ。松山老人には近々そちらへ連れて行くと伝えておけ」  困惑した将極は口をまごまごさせ煌隆を見る。 絶対に断ると思っていたのに。 「そもそも、后妃の現世への関与を一切禁じたのは悪い影響があったからだ。だが響ならば……それも要らぬ心配だろう」  煌隆は響の顔を見下ろしやんわり微笑む。 「お前も、母や友人に会いたかろう」 「っ……はい、はい!」  いくら総て絶ち切って来たと言っても、会いたくないはずがない。  満面の笑みで返事を繰り返す響に、将極が見ているにも関わらず煌隆は唇を重ねる。将極は呆れて息を吐いたが、それでも二人が上手く行った安堵からか表情は柔らかい。  了解した旨を述べ、すぐに返事を出しておくと告げ将極は来た道を引き返した。 「さぁ、私はそろそろ仕事をせねばならん。お前は秌にでも案内させ屋敷を探索しているといい」  離れる事を少し淋しく思ったが、仕事の邪魔は出来ないから響は大人しく煌隆の背を見送った。  煌隆と別れた響は、将極に送ってもらい内裏の居室で鈴を四回鳴らす。一度は無く、二度は誰かを、三度は急ぎで、四度は秌を、五度では将極を呼ぶ合図。別に屋敷内を忙しなく動き回る下女を捕まえ呼んでもらっても良かったが、どうしても女性に自ら声を掛ける気になれない。特に慣れない環境に来たもんだから女性に対する苦手意識が高くなってしまっている。唯一普通に話せるのは秌だけ。  少し待って居室へやってきた秌に案内してもらって屋敷を探索する。あれこれ訊ねる響に秌は上機嫌で説明してくれる。 「今日は随分機嫌が良いんですね」 「はい。主上と媛响様のお顔合わせが無事に済んで私も嬉しいのです」  響の我儘で下女達の住まう離れまでやってきた。下女達は響を見て恭しく平伏する。一向に顔を上げないもんだから響が止めさせるよう秌に耳打ちすると、それをやんわり伝えて下女達は其々の仕事に戻る。  婚儀からこちら、行く先々で官吏は低頭し、下女は平伏するが、当分慣れそうにない。一度将極にせめて平伏は止めさせる事が出来ないか聞いてみたが、それは彼女達の矜持を傷付ける事になるから出来ないと言われた。現世で言う土下座のような格好が何故矜持に繋がるか響には良く分からなかったが、そうまで言うなら響の方が慣れねばならない。  食事の仕込みや、縫い物などしている彼女達を眺め歩きながら話を続ける。 「宰相様も主上が媛响様を女性だと思い違っていらっしゃるようだと心配されておりました。こちらの衣をと指示があった時、問題は解決したのだと皆で大喜びでしたよ」  秌は響の襟元を直しながらにこにこと。 「宰相様?」 「あら。あんなにでしゃばっていたのに肝心な事はお話でないのですね。将極様の事ですよ」 「へぇ、偉い人なんだ」 「ええ、主上の次に。非常に厳格な方なんですけど、随分媛响様を気に入られたようで、私の仕事を取り上げてしまって困っているんですよ」  秌は唇をへの字に曲げ頬を膨らませる。 「これまで幾人もの現世の女性が嫁いで来ましたが、あんなに心を許したのは媛响様だけです。全く、宰相様も主上の事は言えません」  確かに、初めの頃は無口で表情も険しく、体も厳ついもんだから怖い印象があった。けど今はぎこちない笑顔を見せてくれたりと、不器用な優しさを示してくれる。 「いいですか、媛响様。私だって媛响様のお世話をしたいのですから、宰相様がまたでしゃばって来たら断って下さいまし!」  これに響は曖昧に返事をして苦笑した。まぁまず、無理だろう。  少し休憩しましょうと、秌が下女の一人に茶器と茶請けを用意させ、離れから屋敷に戻って来た。庭園の見える部屋で腰を落ち着け、秌が淹れてくれた茶を啜る。 「不躾な事を聞いてもよろしいでしょうか?」  先程煌隆と散策した時の事を思いながら庭園を眺めていると、少し離れたところに座り、あんなに揚々と話していた秌が急に言い難そうに声を落とした。 「良いですよ、別に気にしなくっても何でも聞いて下さい」 「……その、媛响様はお嫌でなかったんですか? 主上と、男性と婚姻なんて」 「ああ、そうか、普通気にしますよね……オレは元々、女性が苦手で、男に好意を持つタイプ……その、性癖だったから全然。秌さん達こそどうなんですか?」  将極を始め、あっさりと響を受け入れてしまったこの環境の方が、性別を気にしないと言ってくれた煌隆の事よりも疑問だった。 「私共官吏が現世で生きていた時代ではそう珍しい事ではなかったので。下女達は不変ではありませんから……分かりませんが、官吏は皆媛响様の事がお好きですよ」  一度言葉を切り表情を曇らせた秌の様子が気になったが、恐らく響を気遣い言葉を呑み込んだのだろう。響は気付かなかった事にした。きっと聞いてもろくなものではない。 「ただ、お子を欲しがっていらした主上が何故、媛响様をお選びになったのか不思議ではありましたけれど」 「え、煌隆は子供が欲しいの?」  それだけは逆立ちしたって無理だ。  そもそも煌隆が現世の人間に拘っていたのは子を成すのは常世の女では無理だからだと、響は秌の説明で初めて知った。 「媛响様が気に病む事はありません。主上は子を成す事より媛响様と一緒になる事をお望みになったのですから」  秌がすぐにこれを言ってくれなければ、また自分が男に生まれた事を後悔するところだった。  ぐるぐる思い悩んだところで仕方が無い。煌隆は関係ないと言ってくれたのだから、それを信じればいい。どうしても気になるなら本人にちゃんと聞けばいいのだ。前回はちゃんと聞かずに勝手に勘違いして落ち込んでしまったのだから、同じ事は繰り返さないように。

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