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十一 ②

 秌に冠を渡し、一日中歩き回って棒のようになってしまった脚で、響は屋敷の自室へ向かう。出来れば一度着替えてから煌隆に会いたい。思いながら襖を開けたが。 「響、おかえり」 「煌隆! ……ただいま」  響の部屋で書物に目を落としていた煌隆が顔を上げ微笑む。書物を伏せおいでと手を招く。しかし響は閉めた襖の前から動かない。 「その、着替えもまだだから埃っぽいです」  コンクリートなんてものが存在しない町では、人の足で結構地面の砂が舞う。おまけに裾もずるずる引いていたもんだから衣は砂まみれだ。 「構わん。早くお前に会いたくて仕事をさっさと終わらせてきたのだ。ここへ」  胡座にした自分の膝を扇子でぽんぽんと叩いて見せる。それでも遠慮がちに近寄れば、腕を引かれひょいと胡座に収められる。すぐに煌隆は響の首元に顔を埋め短く息を吐いた。  首筋に掛かる息がくすぐったくて響は肩を竦める。  それに気付いた煌隆は顔を上げ、少し伸びた響の髪を一方に掻き寄せ耳に口を寄せる。 「ひゃわ! こ、煌隆、くすぐったい」 「……ふむ」  耳を押さえ煌隆を振り向くと、何やら納得した様子で満足気に首を傾けている。その表情の意味がわからず眉をひそめ口を開くも、声を発する前に綺麗な顔が視界を覆い、すぐに塞がれてしまった。 「こう……んむ」  響の体を支える手とは反対の手が髪に差し込まれひとつ撫で、唇を塞いだまま耳を弄る。  全身に鳥肌が立ち、反射的に逃げ出そうと身を捩るが支えた腕はびくともしない。諦め身を任せるとすぐに解放され、離れた唇が今度は額に落ちる。 「……煌隆?」  親指で響の唇をなぞる煌隆の瞳は熱っぽく、響は息を飲む。  もう一度口づけをと煌隆が首を傾け響が目を閉じた時。 「失礼します! ……あら、お邪魔でしたかしら」  着替えを持ってきた秌の陽気な声にぶち壊されてしまった。  煌隆が小さく舌を打ったのを、響は聞き逃さなかった。秌の間の悪さに、響も舌を打ちたくなったのだから。  すぐに着替えをするからと煌隆は追い出されてしまった。  ゆっくり町での話を聞いてやろうと思っていたのに。まぁでも、秌に邪魔されて良かったのかも知れない。あれ以上響の反応を楽しんでいれば、きっと話どころではなかっただろう。  煌隆は庭園に面した縁の欄に腰掛け、すっかり闇が落ちたお気に入りの庭を眺める。ところどころで照らす灯籠の灯で、庭園は幻想的な光景を作る。  響と散歩した様子を思い出せば、自然と笑みが浮かぶ。  思えば響と初めてこの屋敷で会った日から、ずっと煌隆の頭の中は響の事ばかりだった。  ──屋敷を走り回る言葉を話さない小さな子供は、捕まえようと躍起になる下女達から逃げ回り、楽し気な笑顔だった。言葉を話さないと言うことは、現世から迷い込んできたのだろう。その幼さで既に魂が肉体から離れ掛けているとは、運の無いとぼんやり考えていた。  それは煌隆にとってほんの些細な事に過ぎない筈だった。現世で死の淵にある魂がこちらに迷い込んで来るのは、ままある事だった。放っておけば、そのうち自然と現世へ戻る。  余所見をしながら走り回っていた子供が、煌隆の足元に激突してひっくり返ってしまった。転がった子供をやっと捕まえた下女達が頭を下げ、急いで屋敷の外に連れ出そうとする。  変化のない日々を少しだけ騒がした子供を目で追う。つまらなそうに下女に引きずられて行くその子供は、煌隆の視線に気付きにっこりと笑顔を見せた。  何がどうと言うわけでもない。単に綺麗な子供だと言う印象しかなかった。  なのにその子供は煌隆の心を深く打ち、刻まれた笑顔が忘れられず、気が付けば、やはり早くに死した子供を救ってしまった。  正直不安がなかったわけではない。響の発した「好き」と言う言葉はあくまで幼いもので、約束の日が来るまでに、気が変わってしまうのではないか、約束の日に、死を選ぶのでは……けれど響は何年経っても変わらない笑顔をくれた。  ああ、どうして響なのだろう。 「煌隆、ここに居たんだ。将極さんが探してましたよ」  煌隆を見つけて微笑む響を見て、考えるのをやめた。  何故や、どこが等どうでも良い。ただこの、怯えや畏れも媚びも無く笑顔をくれる少年が、とても愛おしいのだ。それだけで良い。  煌隆は欄から降りて、響の額を一つ撫でた。  将極の用事は祠に待機させていた下女から蝋燭に火が灯ったと知らせが入ったとの内容だった。  先に食事を済ませる時間があると考えていたが、それは意外に早かった。現世の夜は短い。夕食は後回しにして急ぎ現世へ向かう事となった。  さて、屋敷を出てから暫く。相変わらず乗り心地の悪い馬車の中。ここでも響は煌隆の膝の中だった。 「足、痺れないですか?」 「なに、軽いお前が乗ったところで痺れるものでもない」  確かに長年野菜しか食べてこなかった響は同じ世代の平均より大分軽い。そう言えば、いつぞやファミリーレストランで倒れた時、涼も軽々と響を抱えていた。ある程度筋肉だってついている筈なのに、自分はそんなに軽いのだろうか?  そんな事を考えながら唸っていると、馬車が停まり扉が開く。降りればそこは禁門のすぐ側。  手燭を掲げた将極を先頭に、煌隆に手を引かれ断崖の小さな洞穴に入る。中は人一人がやっと通れる広さで手摺も無い階段。後ろの衛士が足許を照らしてくれているが、湿った石の階段は滑りやすく、響は煌隆の肩に手を掛けそろりそろりと下りた。  着いた先の質素な部屋の真ん中で、卓に置かれた二本の蝋燭のうち一本だけがゆらゆらと火を灯している。その奥には見覚えのある白木の木戸。  響達が中へ入ると、一人待機させられていた下女が低頭し入れ替わりで出ていった。  響が蝋燭と木戸を交互に見ていると、将極から受け取ったいつかの漆黒の布が下がる冠を被りながら煌隆が教えてくれた。 「その木戸の先が、いつも現世でお前と話した場所だ。あそこにも蝋燭があったろう。あれに火を灯せばその蝋燭も火が灯る」  一本は守りの者、二本は巫女の合図。この蝋燭が二本灯る事はもうない。  心許ない橙の灯は吹けばすぐに消えてしまいそうだが、現世側の灯が消えない限りは何をしても消えないらしい。 「お前に手形を渡してから、毎夜ここでこの蝋燭に火が灯るのを心待ちにしたものだ」 「毎晩? こんな淋しい場所で?」 「普通は別の者を寝泊まりさせるのだが、それでは居ても立ってもおれんでな」 「そんな……全然知らなかった……」  待っているとは言われたが、それがまさかこんな寒々しい何もない場所で、それも毎晩だとは知らずずっと待たせていたとは。声を落として小さく謝る響に、煌隆は気にするなと暖かい掌で額を撫でる。 「誰かを心待ちにして一喜一憂する気持ちなど、私は遠い昔に忘れていた。お前と出逢ってから私は、なくしてしまった多くのものを取り戻す事が出来た。そして今こうしてお前が傍に居る。響が気に病む事は一つもない」  心や感情は、浮いたり沈んだり、乱されたり満ち足りたり、こんなにも忙しく揺れ動くものだと。心や感情で、自身を取り巻く世界も変わるものだと。言葉に表せない程の想いの存在を。そしてそれを為せるのは、自分以外の誰かなのだと。  遠く、人から神に昇天した時。母を亡くした時。少しずつ忘れて行ったものを、思い出させてくれた。 「オレなんて、何もしてないのに」 「表面では忘却していようとも、心の深い場所で真っ直ぐに私を想っていてくれた。何年も、何年も。充分過ぎる程だ……」  包み込むように響を抱き締める背に手を回し、力を込めて応える。  さてそれを黙って見守っていた将極。幸せそうに互いの存在を確認するようきつく抱き合う二人に水を差すのも躊躇われたが、このまま時間が過ぎるのを黙認するわけにもいかない。  一つ咳払いをすると二人はここがどこだか思い出したようで、響の方は真っ赤になって小さくなってしまった。

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