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十一 ③
「そうだった。現世の夜は短い。のんびりしている暇は無かったな」
冠を被り直した煌隆が顔の熱が引かないままの響の手を取る。しっかりと握り、木戸の鍵を外す。それはかたりと乾いた音。
「良いか、しっかり握っていろ。決して放してはならぬ。何が起きるか分からんからな」
こくりと響が頷くのを確認し、木戸の先に広がる闇に踏み入る。響は思わず目を閉じ、煌隆の腕にしがみつく。
闇はねっとりと身体中に絡み付いてくるようで、それは冷たくも熱くもない。煌隆に着いて確かに歩いているが、そこに地面を踏みしめる感覚は無い。そろそろと足を前に出しても、果たして進んでいるのかどうか。
宇宙空間ってこんな感じなのかな。
そんな事を考えていると、きつく閉じた瞼に唐突に光の気配。
うっすら瞼を開くと、橙の光が目に入る。見渡せば狭い板間の部屋に二本の燭台。月明かりが差す格子の窓。正面の閉ざされた扉の前には、漆黒の袴姿の、親友。
涼は煌隆の腕にしがみついたままの響の姿を見て、目をそらし頭を掻く。
「んないきなし見せつけんなよ」
「……涼」
「おう。久し振り。まさかマジで来るとは思ってなかった」
響はそろりと煌隆の腕から離れ、漆黒の布を見上げる。表情は分からないが、感じる雰囲気は少しぴりぴりとしている。
「積もる話もあるだろう。私は松山老人と話してくる」
煌隆は涼の横を大股ですり抜ける。戸を半分開けたところで一度止まり、響が聞いた事のない程低く重い声で。
「……松山涼よ、響はもう私の妻だ。それをしっかり頭に入れておけ」
煌隆と涼が二人で話した事を知らない響は、何故涼に対し煌隆が敵意を剥き出しにしているのか分からない。妻だなんて、わざわざ言わなくたって涼が知っている事はわかっている筈。はっきり妻と言われ、響は照れ臭いながらも不思議に思い首を傾げた。
乱暴に戸を閉めた煌隆を見ていた涼は体を戻し、かつては煌隆が使っていた座椅子に座る響をからかう。
「愛されてんねぇ、媛响様?」
「いいよ、響で……お前にその名前で呼ばれると何か恥ずかしい。てか何で涼が知ってんの?」
常世では「媛响様」若しくは「后妃様」と呼ばれる為すっかり違和感はなくなったが、こちらで友人にその名を呼ばれると違和感より羞恥が先に立つ。
「じいちゃんから聞いた。何てったって守りの者見習いだかんな!」
常世で婚儀が終わると、守りの者にもその旨通達が来るらしい。その中に新后妃の名もちゃんと記されているのだとか。
「あんなに感動的に別れたのに、こんな早く会えるなんてな。台無しじゃねーか」
「今回は特別だよ。本当はこっちに来ちゃいけないらしいんだけど。でも会えて良かった……元気そうだな」
以前と変わらない笑顔で微笑んだ涼に安堵し心の中だけで胸を撫で下ろす。
すっかり着慣れたようで漆黒の袴の着こなしも様になっている。少し痩せたようだが、表情は明るい。
「まぁな。響も元気そうじゃねーか。最後に見た時より随分顔色もいいや」
涼はにじり寄り、響の正面まで来て遠慮がちに触っていいかと訊ねる。なぜわざわざそんな事を訊くのかと響は手を差し出しながら。
「お前は気にしなくて良んだよ……ちゃんと温かいな、安心した。別れた時は、死んでるみたいに冷たかったかんなぁ……」
差し出された響の手を軽く握り、安堵し息を吐いた涼はすぐに手を離した。
「そっちはどんなだ? そんな格好してるって事は男で受け入れて貰えたんだな」
聞けば涼も、煌隆が響を女だと勘違いしているんじゃないかと心配していたらしい。本当に、決まりとは言え顔を隠した弊害がこんなところにまで及んでいたとは。
「うん、色々あったけど煌隆は男でも良いって言ってくれた。慣れない事ばっかだけど皆良くしてくれるし、良い所だよ」
平伏される事だけはいつまで経っても慣れそうにはないが。
涼は元の場所に戻り、良かったと少し淋しそうに笑う。
「……お前さ、いわゆる不老不死になったんだろ?」
「そうらしいなぁ。実感は無いけど」
涼は目線をそらし、声を落として続ける。
「あいつは、何年あのままなんだ?」
「煌隆? さぁ……ちゃんと聞いた事はないけど、千年以上生きてるんじゃないかなぁ」
「……神様だもんな」
ぽつりと落とし、紡ぐ言葉を飲み込んで涼は黙る。
「何が言いたいんだ? 涼」
「響は頭良いからちゃんと分かってんだろうけど……いつか俺がじいさんになって死んでも、お前はずっとそのままなんだな」
涼の言わんとする事が分かり、響は目を伏せた。
そう、常世で不変となった自分は、生あるもの総てに平等にある時間から、弾き出されてしまった。この先何年、何十年、何百年、ひょっとしたら永遠に、交わる事はない。常世の屋敷では殆どが不変の者だから実感としては薄いが、それは確かな事実。
いつか両親も死に、涼や華も死んで、その魂はまた現世に転生する。そしてまた転生した魂も死して、また転生して。やがて響が現世で関わった魂も、響の事を忘れていく。
「オレは大丈夫だよ、ちゃんと理解してる」
皆に置いて行かれても、愛しい人はずっと、傍に残る。煌隆が隣に居てくれればどんなに辛い事も乗り越えられる。
ここで、死を選ばず煌隆と一緒になる事を選んだ時から、覚悟は出来ている。
「そうか、ならいいや」
涼は視線を響に戻し、ころりと表情を変え悪戯っぽく笑った。
「じいさんになった俺見ても笑うなよ」
「笑うわけないだろ。ただ誰かは分かんないかもな」
「あ、ひでー!」
二人の笑い声が格子窓から漏れて、星と月が明るい夜の空に溶ける。
涼が涼のままで、本当に良かった。
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