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十一 ⑤

 冷たく刺すように話す父は、全く信じる気がないらしい。それを聞き流した煌隆は立ち上がり、また細く長く息を吐く。何度か繰り返すうちに、静かな山が騒ぎだす。  煌隆の足元で大人しく黙っていた松山老人が何かを感じ、慌てて煌隆に体を向ける。 「主上! 何をなさるおつもりですか! こちらでお力を使っては、何が起きるか!」 「この神社を少し弄るだけだ。下界に影響はなかろう……私が口で説明するなぞやはり無理なのだ」  松山老人に両親を連れてくるよう言い、先に境内に出る。  境内に出た煌隆は空を仰ぐ。 「こちらの空は、まこと美しい……」  社務所から一同が出てきたのを確認し、境内の中央、本殿に背を向け立つ煌隆はまた細く長い呼吸を始める。  遥か昔、人を捨てた時に授かった神の名と、不変のからだと、特別な力。  神の証を顕現する為に、幾百年振りで手元が狂わぬよう、集中する。  本殿で話し耽っていた響と涼は、突然地面が大きく揺れて慌てて床に伏せる。一度体が跳ねる程揺れた後はぴくりとも揺れず辺りはしんと静まりかえった。  二人はそろりと戸から顔を出し辺りの様子を窺う。目の前では両手を広げた煌隆が本殿に背を向け立っていて、社務所の近くでは響の両親と華が身を寄せ合っている。松山老人は……暗闇に溶け込み分からない。  暗がりで表情までは分からないが、皆一言も話さずしきりに頭をきょろきょろさせている。それに倣って二人も辺りを見渡してみると。  はて、境内はこんなにすっきりしていただろうか?  今にも境内を呑み込まんとしていた鬱蒼とした木々が無く、空が広い。正面で鳥居に絡まっていた巨木はほどけ、大きくヒビの入り傾いた心許ない鳥居の全容が見てとれる。  煌隆に目を戻すと丁度振り返り、見つけた響と目が合った顔を、覆う物は何もない。あっと響は小さく声を上げたが、煌隆は微笑み両手をまた軽く広げる。細長く息を吐けば澄んだ口笛が境内に響く。  本殿から顔を出しぽかんとしたままの響を置いて、涼は華の元へ駆け寄り何事か訪ねる。 「わ、わかんない、地面が揺れたと思ったら、あの人が手振って、そしたら周りの木が粉になって消えちゃった……」  響の両親も何が起きたのか理解が追い付いていないようで、二人とも抱き合ってあんぐり口を開けたまま固まっている。二人の足元では松山老人が煌隆に向かって平服している。何かぶつぶつ言っているようだが、涼が声を掛けてもゆすっても反応が無い。 「そんな、まさかこんな事が……」  父が口の中で呟く。  木を一瞬にして消してしまい、おまけに巨木の枝を手も触れず曲げてしまうなんて、人間では不可能だ。さもなければ集団ヒステリーか薬物による幻覚。 「ふむ、これで多少住み良くなったな」  煌隆の満足気な声を聞いて、響は境内に下りて真っ直ぐ煌隆の元へ向かった。 「煌隆、何があったんですか?」 「響っ!?」  響が問い掛けると煌隆が答えるより早く、その声を聞いた母が我に返り前のめりになりながら走ってきた。 「響……?」  やっと大事な息子を見付けた母は、一秒でも早くこの手に取り戻そうと両手を広げたが、その腕はそのまま止まり躊躇う。  得体の知れない男の手を取り、石灯籠と篝火の灯に照らされた息子は、消えてしまう前とどこか違う。少し髪が伸びたし、着ている物も隣の男と良く似た時代劇のような格好だが、見た目の話ではない。  まとわりつく雰囲気も本人の雰囲気も、違う。これは本当に、自分の息子なのだろうか。  例えるならそう、十年前病を克服したあの朝感じたものに良く似ている。  まるで壊れそうなくらい、綺麗で、とても綺麗で、愛しい。  あの朝自分は続けて何と言った? そう、きっと神様が助けて下さったのだと。 「……まさか」 「母さん? どうしたの?」  母は広げていた手を下ろし、煌隆をちらりと見上げる。その口許は微笑んでいて、手元に目を移せば響の手を優しく包んでいる。 「あの、母さん。突然居なくなってごめんなさい。色々わけがあって……どこから話せばいいのか」  眉尻を下げ言葉を探す響の口を、母がそっと手を当て遮る。 「わけなら、その方から聞いたから……」  震える唇を噛み締め、泣きそうな笑顔で響を見る。響は説明下手の煌隆がどうやって母を納得させたのか気になったが、今はとにかく泣き出してしまいそうな母の手を取り笑い返した。 「響! 何してるんだ母さん、さぁ早く帰ろう! こんな気味の悪いところに響を置いてはおけない」  いつの間にか母の後ろに来ていた父が、慌てて母の手ごと響の手を掴み自分へ引き寄せ抱き締める。感動の再開も程々にすぐに腕をほどき響の手をしっかり握り直す。  その手をほどいたのは、母。 「お父さん、もう響は、私達の響じゃないのよ……」  母は真っ直ぐ響を見詰める。響はその瞳から逃げることもなく、ただ見詰め返す。母は僅に微笑むと、隣の煌隆へ視線を移す。 「……あの時、響を助けて下さったのですね」 「十年前、響の魂が常世へ来た日ならば……私は魂の管理もしており候。本来死した魂を現世の肉体へ戻す事は禁忌なれば、しかし響を幼いまま死なせる事が、あまりに惜しく」 「……そう、やっぱり。あなたのお陰であれから十年も響と過ごす事が出来ました。あなたが響を連れて行くと仰るなら、それに従うべきなのでしょう」  あんなにヒステリックに叫んでいたのに、静かに声を落とし瞳を伏せた。渦巻く葛藤は圧し殺し、今度は父が母を説得するため張り上げた声に耳を塞いだ。  母は体を起こした松山老人に言って父を社務所に連れて行かせた。それを見た煌隆も、涼に目配せし響を本殿に押し込んだ。 「先程は、取り乱してすみません。何も、信じられなくて」 「無理もありませぬ。突然響を奪い去ってしまったのは言い訳のしようもなく候」 「ふふ……あなたって古い話し方をするんですね」 「人を敬い話すのは久しく、現代にそぐわぬのは承知の上。申し訳ない」 「良いんです……だってあなた、神様なんでしょう?」  華も涼に着いて本殿に入り、境内には煌隆と母の二人だけ。  開けた境内には沈み掛けた月と星の光、それと石灯籠と篝火の灯が二人を照らす。その幻想的な光のコントラストに照らされた煌隆は、本当に、この世の者とは思えない程美しかった。母の目に写った響からもまた、この世の者とは違う美しさを感じた。 「……このような形で、母君と決別させるのは私の本意ではなく……なかったのです。総ては私の失態故で」  父親はともかく、煌隆は母親に対し特別な思いがあるようで、少し顔を伏せて話す。 「早くにこちらへ連れて来る事も出来たのですが、私はようやっと響を迎えて舞い上がっておりました。常世と現世では時の流れが異なり、母君の心を幾日も締め付けてしまいました」 「あなたは響を連れ去ったままで居る事も出来たでしょう。でもこうして会わせてくれて、真実を話してくれて今は感謝します」  母は少し躊躇いながらも煌隆の手を取り、我慢していた涙の滲んだ瞳で見上げる。 「本当は今すぐに響を連れて帰りたい。でもそれが出来ないなら、一つだけ約束して下さい。間違いはないと思います。けれど、母としてこれだけは言わせて。あの子を、響を必ず、幸せにすると。それが何十年何百年、何千年……永遠であっても」 「約束致します。私はあの日響を救った時に己に誓いました。必ず、永久に傍らで、この子を幸せにすると」  母は涙を飲み込み握った煌隆の手を強く握りしめ、小さく、ありがとうと、礼を言った。 「……さぁ、積もる話もありましょう。次はいつこちらへ連れて来られるかわかりませぬ。父君も一緒に響と話を……こちらの夜は短い故」  煌隆は唇を噛み締める母の手を引き、社務所へ促す。居間で待機していた父に睨まれながらも母を置いて本殿へ響を呼びに行く。もう月も大分沈んでしまった。こちらに居れる時間は多くない。

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