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十一 ⑥
響を社務所の両親の元へ置いた後、煌隆は本殿の座椅子に座り大きく息を吐いた。現世で力を──現世で言うなら所謂、神通力と言ったところか。使ってしまった疲れもあるが、それ以上に精神的に疲れてしまった。
こんな感覚は何百年振りか、ひょっとしたら昇天して初めてかもしれない。他人に気を使う生活から遠く離れていた為、必要以上に消耗していた。
「へっ、流石は神様ってとこだな。あっさりおばさん丸め込んじゃって」
目の前では、残された涼が正面に、戸の横の角で華が正座に固まっている。涼は一度見えたせいか、緊張が少なく前に比べて態度が横着になっている。
「私としてもまだ長丁場になると思っていたのだがな。父君はまだ半信半疑と言った様子だったが」
ほっと息を吐いたところで、手持ち無沙汰に腕輪を触る。今になって冠と扇子を社務所に置き忘れて来た事に気付いた。
そんな些細なミスをしてしまった自分に、煌隆は少し嘲笑する。
本当に、響と出会ってからと言うもの、まるで人間に戻ったよう。
後で響を迎えに行かせるついでに冠と扇子を持ってくるように涼に指示してから、隅で固まっている華を見やる。
「……そちらの女、名は何と言ったか。ああ、いや、まだ聞いておらなんだったな」
華はちらりと涼を見て渇いた口を開く。
「……華、海岡華です」
名乗ってから煌隆の顔を盗み見る。見れば見る程美しく、こんなに綺麗なら聖をブスだと言ったのも……まぁ頷ける。
「海岡華よ、あちらへ帰る前に聞いておきたい事がある」
「は、はい」
急にきりりと眉を上げ、真剣な眼差しで華を射る煌隆の目に、思わず背筋を伸ばす。
しんと静まり返った辺りの空気に、涼も息を飲み見守る。
「松山涼に聞いても良かったが、女が居ったからお前に聞く」
「はい」
「はんばぁぐとは何だ?」
格子窓から入ってきた風が蝋燭の灯を揺らす。聞こえるのは三人の息遣いと、身動ぎした煌隆の衣の衣擦れの音。
呑み込まれそうな程の真剣な眼差しで何を聞かれるかと思ったら、その口から出た単語はハンバーグ。聞き間違いかと思い華は躊躇いながら聞き返したが、やはりまた同じ単語を繰り返す。
「ええっと……その、料理の、名前?」
「ほう、料理の名なのか。随分と妙な名だな。して、それはどのような料理だ?」
華と涼は顔を見合わせる。
何と答えたら良いものか。あまりに真剣な煌隆の表情に、本当にただハンバーグの事を答えたら良いものか、分からない。ひょっとして何か暗号めいた話なのでは?
「響に何が食べたいか聞いたのだ。ならば「はんばぁぐ」と。しかし誰もそんなもの知らんでな。何か特別な料理なのか?」
相変わらず真剣な顔のまま続ける。
あ、本当にハンバーグが何か分からないんだ。
同時に思った華と涼は、俯いてこみ上げる笑いを噛み殺す。
「えっと……その、特別なものじゃないです。家庭料理です」
そりゃ特別な材料で拘って作ればレストランで高い金を出して食べる物。しかし家庭料理ではカレーに次ぐ定番料理。数える程しか料理をした事のない華でさえそれなりに作れる代物。
百年以上現世と関わりがないなら、無理もないのか。
「何だ、何がおかしい」
「何でもないです」
「では作り方を教えろ」
「はい、えっと……みじん切りにして良く炒めた玉ねぎと、ミンチと卵と……」
「待て、みんち?」
身を乗り出して眉間に皺を寄せた煌隆を見て、二人は堪らず吹き出してしまった。
腹を抱えて床をのたうち回る二人を、煌隆は眉間に皺を寄せたまま眺める。何がそんなにおかしいか分からない。
「すんませっ……そうだ、後で作り方書いて手紙で送ります、その方が良いっすよね」
呼吸の落ち着かない華に代わり、涼が涙目で言った。
「ふむ、そうしろ」
了解した涼は平伏しているように見えるが、その実まだ笑いを堪えている事を誤魔化しているのを隠し切れていない。
それを見ていた煌隆は少し可笑しくなって笑いを漏らす。
今まで自分の前にあるのは、平伏した人々の頭、怯えた顔、張り付けた笑み。誰も彼も感情を腹の中に隠し、何を考えているのか分からない。安心出来たのは将極と秌だけ。
それが今日、神社へ来てみれば母の涙に父の怒りに、華と涼の大笑。皆感情が豊かだ。
「妙な気分だ」
「は?」
「……極力、響をこちらへ連れて来る時間を取るようにしよう。松山涼、そろそろ響を連れてまいれ」
言って華と涼を追い出し、煌隆は一人でくすくすと笑った。
木戸の向こうに帰る二人を見送り、一同は境内にぞろぞろと出てきた。狭い本殿に五人も居ては窮屈だ。
空を見上げる響の両親に、涼はそろりと近づく。気付いた母が微笑む。
「涼君、全部知ってたならどうして教えてくれなかったの」
「言って信じた?」
母はくすくす笑ってそれもそうだと呟く。煌隆の神通力を見た後でも、頭ではまだ信じられない。
「あの子ね、今じゃ肉も魚も食べれるんですって。それにね、はっきり言ったよ。あの人を、神様を愛してるって、この先ずーっと、一緒に居たいんだってね」
隣で唇を噛み締める父を見上げて、その背を撫でる。父はきっと自分以上に頭の理解が追い付かないのだ。必死に守ってきた家族、一人息子。ひょっこり表れた現実は総てが家族にとって突然で、笑顔で受け入れる事はまだ出来ない。
「あの人が神様だとか、響が不老不死になったとか、常世だとか現世だとか……そんなのはどうでもいいの。ただ響が、元気で、幸せなら、それだけ分かれば充分……どこか遠いところに、お婿さんにやったと思えばね」
煌隆はまた連れて来ると約束してくれた。永遠に会えなくなったわけではない。
あの、幼い息子が病魔に負けてしまうかも知れなかった時、ファミリーレストランで倒れたと聞いた時、得体の知れない死神が背中に張り付いていた時の計り知れない不安と恐怖に比べれば、神の嫁など可愛いものだ。
あの夜、死んだ筈の息子が十年も生きたのは、未来を約束されたから。何をしても突出していたのは、きっと尊いものを分け与えられたから。
我が息子ながら時に浮世離れした空気を漂わせていた理由が、やっと分かった。
「……ただ死んでしまったと思うより、ずっと良いじゃない、ね、お父さん」
父は何も言わず、母の肩を抱いて社務所の客間へ消えた。その背中はとても、淋しそうに見えた。
それを見送った涼は、背中をつつかれ、黙って隣に立っていた華に体を向ける。
「元気そうで良かったね、大河」
「ああ……そだな」
遠く、常世に思いを馳せ空を見上げる涼の横顔に、華は最後に響がこそりと耳打った言葉を思い出す。
『涼の事、宜しく頼む。あいつ今失恋中だから海岡が支えてやって』
「……あんたが本当に好きだったのって」
「ん?」
「いや、何でもない。寒いし、あたし達も入ろ」
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