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十二 ①

 現世の空は白み始めていたが、祠を抜けて仰いだ空はまだ漆黒。左手に見える禁門は夜の闇に包まれている。 「こっちはまだ夜なんですね」  外で待機していた馬車に揺られ、響は通り過ぎる町を眺めながら背中から回された手を握る。  所々に酒処の釣灯籠やふらふらと歩く人の提灯の灯りだけで、朝の活気から遠く離れている。静かな町に馬車の車輪の音と馬の蹄の音が響く。 「そう、あちらとは時の流れも違えば夜の長さも違う。まだこちらでは然程時間は経っておらぬが、どうする? 屋敷に着いたらすぐに休むか?」 「ううん、埃っぽいから風呂に入りたいです」 「疲れてはおらんか?」 「大丈夫です。お腹も空いたし……あ! そうだ、オレ今日町で煌隆にお土産買ってきたんです。すっかり忘れてた。晩御飯の時に出して貰います」  小窓を閉め、煌隆に体を預け顔を見上げればそっと手が伸びてきて額を撫でる。 「そうか、それは楽しみだ」  煌隆は響の額に軽く口付ける。響は体を回し、横向きに煌隆の首に腕を回し唇にせがむ。 角度を変えながら何度か口付けを交わせば、響は正面に向き直り煌隆に体を預ける。煌隆は小窓を開け、並走する将極に何やら指示してから響の腹に手を回す。 「煌隆、さっきのは何だったんですか?」  響は消えた木々と鳥居からほどけた巨木の枝を思い出した。境内の真ん中で満足気に微笑む煌隆の姿を見て、あれは煌隆の仕業だと漠然と思いはしたが、既に事は終わった後で何が起きたのか分からない。  響の肩に顎を乗せて話す煌隆曰く、あれは神となった際授かった特別な力による物だとか。大いなる自然を操る力──だと。ならばヒビの入った今にも倒れそうな鳥居を何故そのままにしたのか。 「一度人の手で変容したものはどうにも出来ん。倒れる前に守りの者が修繕するだろう。まぁ……授かったと言ったが、元々私には神になる以前から人ならざる力があったのだがな」  言って響を抱く手に少し力を込めた煌隆の声はいつもより少し暗鬱な音色を含む。余り深入りしてはいけないかと会話を終わらせようと口を開いた響の額を、煌隆はさらさらと撫でる。 「屋敷に着いたようだな。さぁ、続きは夕食を摘まみながらゆるりと話そう」  玄関では秌が待機していて、響が馬車から降りると秌を筆頭にわらわらと女官が集まってきた。響はギクリと体を強張らせ、こちらへ来たばかりの時の禊の事を思い出す。さっさと引き離されてしまった煌隆を見ると、あちらは将極だけ。手を伸ばしても、その手は秌に取られてしまい引きずられるように響は内裏へ連れて行かれた。 「秌さん……何で今日はこんなに多いんですか?」  広い脱衣所で響の服を脱がせる下着姿の秌に、こそりと耳打つ。背中で帯の紐を引く女官は秌と一緒に行動している事が多く大分慣れたが、周りで風呂の支度をする他の者達は見慣れない顔が多く落ち着かない。 「今夜は雑多な仕事が早く終わったものですから、連れて参りました。媛响様のご入浴をお世話するのにいつも私一人でしたから」 「……煌隆も、こんなに沢山の人から世話して貰ってるの?」 「主上のお世話が出来るのは宰相様だけです。時折下女が手伝う事もありますが、大概は宰相様一人でしておしまいです」  響の腰に手拭いを巻き体を起こした秌が、ぱっと目を見開き頬を染める。 「もしや、やきもちですか?」 「違いますよ! その……」  間髪入れず否定され、つまらなさそうに肩を落とした秌の耳元を両手で包み、他の女官に聞こえないよう響は一層声を落とした。 「あの、お世話して貰うのはありがたいんですけど、あんまり大勢はやめて欲しいんです」 「あら、何故です?」 「……女性に囲まれるのは、その、ちょっと、て言うかかなり、怖くて……」  ぞろぞろと大人数で風呂に入れられる前に、響はつっかえる言葉をどうにか振り絞って告白した。  聞いた秌は笑うでもからかうでもなく、急に背筋を伸ばしきりりと表情を引き締めれば女官を全員脱衣所から追い出してしまった。追い出すと言っても、適当に理由をつけて彼女達に別の仕事を与えてやった。 「それは、それは……知らずとは言え申し訳ございませんでした」 「いやその、良いんです、言わなかったオレも悪いし」  秌は笑顔に戻り、響の手を引いて風呂に入った。  何度目か、秌に体を清められる事をいつも恥ずかしく思っていたのに今回は秌一人になった安堵ですっかり体を預けた。  その後、女官の半数が暇を与えられ町で転生を待つ事になったのを、響は知る由も無い。

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