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十二 ②

 風呂から上がればすぐ食事に座敷へ連れて行かれたが、そこには相変わらず険しい顔の将極一人。聞けば、煌隆は髪を乾かすのに時間が掛かるのだとか。あんなに長いのにこちらにはドライヤーも無いのだ、乾かすのはさぞかし骨だろう。 「某は媛响様のお相手をするよう仰せられましたので、ここに」 「はぁ、そうですか」  座椅子に座れば、将極は手短に言ってすぐに黙る。  大分話しやすくなってはきたものの、にこやかに世間話でもしようかと言う空気は作ってくれない。辺りは静かなもので、屋敷の中央にあるこの部屋では時折廊下を行く誰かの擦るような足音と、そわそわ体をよじる響の衣の衣擦れの音くらいしか聞こえない。背筋をピンと伸ばしぴくとも動かない将極は衣擦れの音さえない。  響は張り詰めた沈黙に何だか落ち着かず、置物のように動かない将極にそっと声を掛けてみる。 「あの、将極さん」 「はい」 「聞いても良いですか?」 「某に答えられる事ならば、何なりと」 「将極さんや秌さんも、その、不変、なんですよね」  不老不死、と言う言葉を口に出すのが何だか気恥ずかしく、こちらの人達の言葉を借りる。言葉にしてみても、自分や周りの人々の多くが不変だという実感は得られない。 「はい。官吏のすべてが不変の者ですが、主上と同じ時を共にしているのは某と秌の二人のみです」 「二人共、一度死んでから官吏になったんですか?」  以前秌から、官吏に上がる仕組みを聞いた事がある。  それは常世を現世として生きる人々の町──第一区画から希望者があれば仕官すると言うもの。そして魂は不変となり、解任されるか辞任するまで永い時間を過ごす。官吏を離れれば同時に不変は解かれ、町に降り転生、即ち常世での死を待つ事となる。滅多に人員の入れ替わらない屋敷に仕官する事は、第一区画の住人にとって名誉な事なのだ。 「いいえ、某と秌は主上が神として昇天する際、人をやめたのです」  将極は響から視線を外し、僅かに天井を仰ぐ。その瞳は遥か千年、二千年程も昔、彼らが人として現世を生きていた時代を映しているのだろうか。最早人の頃の記憶は殆ど誰の心にも残っていない。しかし現世を発った時の事は今でも憶えていると、将極は言う。  まだ文明は乏しく、秩序が粛々と守られていた時代。三人は友だった。とは言え煌隆は王族、将極と秌は明日をも知れない只の民。そんな三人がどうして友として過ごしていたかそのきっかけは記憶に遠いが、こっそり里に下りて来た煌隆とよく遊んでいた。  当時から生真面目だった将極は一度だけ、煌隆を拒んだ事がある。その態度に煌隆は不思議そうに「そんな事で私に遠慮していたのか。存外、つまらぬ奴よの」と呟いた。これに将極は無性に腹が立った事を憶えている。 「そんな事も言ったな」  襖の向こうから笑い声が聞こえて将極は口を閉じた。  湿って重い髪を引き摺って煌隆が響の隣に座り響の額を撫でる。 「主上、御髪がまだ濡れております」 「良い、これ以上響を待たせたくなかったのだ」 「しかし、お風邪を召されては大変です」 「神が風邪など引くものか。のう、響」  向けられた悪戯っぽい笑みに響は曖昧な返事と「そうなんですか?」と困った笑みを返した。 「お前が昔話をするとは珍しいな。いつの間に響にそれ程気を許したのだ?」 「媛响様のご質問にお答えしたまでです」  郷愁に細めていた瞳をきりりとつり上げ、将極は表情を引き締める。  そろりと開いた襖から料理を運んで良いかとの声に将極は短く是と返し、真一文字に口を結ぶ。 「丁度響に人の頃の話をしようと思っていたところだ。将極、続きを話せ」 「主上がお話して差し上げた方がよろしいかと」 「私よりお前の方が覚えておるのではないか?」 「某は主上の我儘放題の様子しか覚えておりませぬが」  間も無く料理が運ばれ、いらぬ事を、と快活に笑い煌隆が箸をつける。それを見届け響と将極も夕食にかかる。 「煌隆は王族だったんですか?」  響はこちらに来て耳に慣れない単語を多く聞く。王族、だなんてそれこそ現世では歴史の授業でしか耳にした事がない。 「そうだ。子細は覚えておらなんだが、天子だと言われていたな。王の第一子として現世に産まれ落ち、神通力を以て天子と呼んだ……だったか」  産まれた瞬間から特別だった。物心がつき人ならざる力に気付けば、崇め奉られるようになった。  それは響の時代で言うところの超能力のようなものだったのかも知れない。  それを目にした当時の人々は畏れ戦き、口々に神の子、天帝の子だと呼んだ。天子は神の声を聞き届け、神から授かった大いなる手を以て国を、民を、豊かに導いて行くと、誰もが信じていた。  誰も天子を人だと思ってはいなかった。 「それが実際に神となったのだからな。皮肉なものよ」  人で在りたかった。  下界に見る民と同じ人である筈なのに、煌隆は人と同じく振る舞う事を固く禁じられていた。  加えて王である父の激しい嫉妬。民は王を差し置いて何をするにも天子の意を賜った。ついに父王は民に隠れ天子を折檻するようになる。  人と違う力などいらぬ! 只の人になりたい!  では何故、神となった? 「……さぁ、覚えておらんな」 「本当に?」 「何故そう思う?」 「分かりません……でも、昔の事を話す煌隆が、凄く淋しそうだから……」  そう言って見上げる響の額を、煌隆は優しく撫でる。  知っているのかいないのか、将極は瞳を伏せたまま黙って煌隆の話を聞いている。 「もし、覚えていてもそれを口には出せぬ。相手が響、お前であっても」  人々が期待する神の声は、一度も聞こえなかった。聞こえているように振る舞っただけだった。唯一度を除いて。それは最初で、最後だった。  神の声に答えた煌隆の言葉を、当時居合わせた将極は覚えている。恐らく秌も。口には出せないと言った煌隆も、その口振りからして覚えているだろう。  ──どうせ私は人ではないのだ! 神でも何でも勝手にしろ! 私が死ねば父はせいせいするだろう、天子は短命だったと。民は涙を流して祝福するだろう、天に還り更なる高みへ昇るのだと。ならば同じ事だ!  私の居場所は現世に無いと、最後に小さく泣いた声。孤独に震える背中を見て、将極と秌は煌隆に付いていく事を決めたのだった。 「……理由は何であれ、今は立派に使命を全うしておられる。それで良いではありませんか」  初めて口を挟んだ将極の優しげな口調。響はそれ以上深く聞くのをやめ、淋しそうに微笑む煌隆の腰にしがみついた。 「どうした?」 「……オレに、煌隆の淋しさを埋める事が出来るかな」  初めに持った淋しそうな人だと言う印象は今でも時折抱く。それは気高い故の孤独だろうか。 「何を言う。もう既に、私は充分癒されておる」  煌隆は響の額をさらりと撫でた手を頬に寄せ、唇を重ねる。ツンとアルコールを含んだ吐息が鼻の奥から喉にまとわりつく。  さて、あっという間に出来上がった二人の世界から将極は除外され、没頭する二人を横目に食事を再開した。

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