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ボールルームダンス。それは大抵男性の左手と女性の右手を重ね、伸ばした状態で行われる。今の辰巳にはその姿勢を取る事さえ出来なかった。
だが、元より見せるためではない。ニッと口角を上げる辰巳の手を、フレデリックはそっと掴んだ。背中というより腰に回された辰巳の右腕に、フレデリックはクスリと笑って首に腕を回した。
ふっ…と、小さく笑った辰巳に、フレデリックは左足を引いた。ゆったりとした三拍子。辰巳のリードに合わせて踊るスローワルツは、音楽などなくとも十分フレデリックを愉しませるものだった。くるりくるりと回りながらフレデリックが問いかける。
「日本ではあまり踊らないって言うのに、どうして辰巳は覚えたんだい?」
「あー…昔付き合いのあった女がちょっとな」
「彼女?」
「んな訳ねぇだろ。ただの小遣い稼ぎだよ」
辰巳の人生の中で、恋人と呼べるのはフレデリックただひとりである。その事にまだ、フレデリックは気付いていなかった。友人すら作らなかったとは言え、彼女は別だと、そう勝手に思い込んでいるフレデリックである。
「…本当に?」
「ああ? 言っとくが俺はお前以外に付き合った奴なんざ一人も居ねぇよ」
「嘘……」
思わず呟いて足を止めたフレデリックに、危うく足を踏みそうになって辰巳が顔を顰める。ゴツリと額を合わせて辰巳が嗤う。
「嘘もクソもねぇだろ。オトモダチも、お前が初めてだって言わなかったか? ん?」
「恋人は…別だと…」
「はぁん? んなめんどくせぇモン誰が作るよ」
あっさりと吐き捨てる辰巳には、フレデリックも苦笑を漏らすしかなかったが。
「どうしよう辰巳…僕は今死んでしまいそうなほど嬉しい…」
「なんだお前、もしかして今の今まで気付いてなかったのかよ?」
こくりと頷くフレデリックの頭を、辰巳がわしわしと撫でる。
「案外鈍感だなお前」
「鈍感でもいい。今の僕は最高に嬉しい」
単純だな。と、そう言って笑う辰巳の唇をフレデリックは奪った。奇跡だと、そう思うフレデリックである。
「そういうお前はどうなんだよ?」
「僕は…聞かなくてもわかるだろう?」
「まあ、だいたい想像はつくけどな」
フランスでの滞在時、フレデリックに恋人が出来たと聞いて驚いたと、クリストファーと養父であるアドルフが言っていた。それを思えば、辰巳の想像は間違っていない筈だった。
本当に、お互い様だとそう思う二人だ。理由は違えども、辰巳もフレデリックも互いに出会うまで他人との関わりをほとんど持つことがなかった。
だからこそこれだけ歪んでしまっても受け入れてしまえる。”普通”などという概念のない二人なのだ。
まさかフレデリックが気付いていなかったとは思わなかった辰巳だが、結果的に喜んでいるのならそれでいいと思う。そうでなくとも、今日はフレデリックにとって特別な日なのだから。挙句、辰巳は怪我までしてしまった。
偶然とはいえ、少しくらいフレデリックの気が和らぐ事に越した事はないのである。
「そろそろ時間じゃねぇのかよ?」
「そうだね」
それぞれ確認する腕に嵌められた時計は、前回のクルーズで揃いで買ったものだ。他にも時計はいくつもある二人だが、どうにも気に入ってこればかり着けているのは仕方がない事だろうか。
委任式の直前、フレデリックはクリストファーをダンスフロアの手前で呼び出した。その意味に気付いて辰巳が袖を引く。
「お前、約束は忘れんなよ?」
「大丈夫だよ辰巳。それとこれとは別の話」
クリストファーが仕事よりもマイケルを優先させた事を言っているのかと、辰巳がそう問えば、フレデリックはあっさり頷いた。確かに間違った判断ではあるが、どうにも遣る瀬無い辰巳だ。
「惚れた奴を守りてぇと思うのは…仕方がねぇだろ…タイミングが悪かっただけだ」
「クリスがいたなら、辰巳がそんな怪我を負う事もなかったと僕は思ってるけれど」
「それこそ話が別だろぅが」
じろりと辰巳が睨めば、フレデリックは困ったように微笑んだ。
「ねえ辰巳。キミは、クリスは本当にマイクに惚れてると思うかい?」
「ああ? そうじゃなかったら仕事ほっぽり出すような男じゃねぇだろ」
「……そうだねぇ」
そう言って考えるようにフレデリックが目を伏せた時、ダンスフロアから出てくるクリストファーの姿が見えた。左腕を吊った辰巳に様子を尋ねるクリストファーを、フレデリックが手招く。
辰巳の目の前で二人が向かい合ったその瞬間、フレデリックの膝がクリストファーを蹴り上げていた。首を抑え込まれて逃げようもないクリストファーが呻きを上げて床に蹲る。
「理由は、分かっているね?」
「……悪かった…」
小さく頷いて謝罪するクリストファーに、フレデリックが冷たく言い放つ。
「キミが誰とどう付き合おうと僕には関係がない。けど、仕事よりも私情を優先するような駄犬に成り下がるというのなら、話は別だよクリス?」
「わかってる」
二人の遣り取りは、辰巳には口も出せなければ、どうする事も出来ない領域の事だった。こればかりは、辰巳が怪我をしていなくても変わりがないという事を、その場の全員が理解している。
辰巳との約束通り、フレデリックはそれ以上の追及をしなかった。あっさり踵を返すと辰巳に目配せをする。辰巳が隣に並べば、やはりフレデリックは困ったように微笑んだ。
「辰巳。委任式が終わったら…クリスの事で少しキミに話しておきたい事がある」
「わかった。それと、悪かったな」
「まったく…キミは本当に素直で参るね」
「俺のこれは、誰のせいでもねぇよ。もちろんフレッド、お前のせいでもねぇからな」
吊った左腕に目を遣って言う辰巳に、フレデリックが悲しそうに目を伏せる。明らかに後悔を含んだその仕草に、辰巳はミシリと奥歯を噛み締めた。
取り乱しはしなくとも、メディカルセンターでのフレデリックの真っ青な顔がすべてを物語っている。不甲斐ないと、そう思う。
「俺が下手打ったことの文句は、俺がきっちり後で聞いてやる。だから行って来いよ、キャプテン?」
「そうだね。愉しいお仕置きの前に、もう一仕事してこようかな」
「仕置きかよ…」
フレデリックの台詞に、げんなりする辰巳である。ともあれ、辰巳の嫁は仮面を被らせたら右に出る者はいない。穏やかな表情で颯爽と歩くその姿を、辰巳は眩しそうな表情で見送った。欲目と言われようが、辰巳が男前だと思えばそれでいいのだ。他人がどう思おうと知った事ではない。
辰巳はゆっくり委任式を眺め、ダンスパーティーを上から見物しようと螺旋階段を上がれば、クリストファーの姿があった。こちらもどうやら、肋骨が折れたくらいで恋人の晴れ姿を見逃すような輩ではなかったらしい。
大丈夫かと辰巳がそう問えば、骨を折ったくらいで済めば儲けものだと言ってクリストファーは笑う。その顔に、骨折させたフレデリックに対する恨みや憎しみはまったくなかった。
「悪かったな、怪我をさせて」
「あぁん? こりゃあ俺が下手打っただけだ。つぅかよ、あのマイクってのは何モンだ?」
「さあな。俺にもよくわからん」
思い出したようにマイケルの事を問いかければ、あっさり知らないというクリストファーを思わず見下ろす辰巳である。
「お前ら付き合ってんじゃねぇのかよ?」
「馬鹿か。お前らと一緒にするなよ辰巳。素性も明かしちゃいないのに、何でもかんでも知ってる訳がないだろう」
言われてみればそうかと思う。クリストファーもまた、マフィアなのだ。いくら付き合っていると言っても、それがすべてを明かす事とは限らない。
そもそもフレデリックでさえも、はっきりと辰巳に素性を明かしたのは一年ほど前の事なのだ。つまり十年間ほど、フレデリックはマフィアである事を隠して辰巳と付き合ってきた事になる。
それを思えばクリストファーがマイケルに素性を明かすのは、まだ先の事だろうと納得してしまう辰巳だ。
手摺に両肘をついてフロアを眺めているクリストファーの横に、辰巳もまた同じような姿勢を取る。優雅な音楽に合わせて美しいドレスを纏った女性とフレデリックが踊る様を見下ろした。
「先に言っとくが、フレッドには言うなよ?」
短く返事をするクリストファーに、腕を斬りつけられた時の出来事を話す。マイケルは二人には内緒だと言っていたが、クリストファーは恋人だ。
まさかマイケルがクリストファーを騙して寝首を掻くなんて事はないと信じてはいるが、何があってもおかしくはない世界に自分たちは生きている。
それに、どうやらマイケルとクリストファーは何やらゲームをしているらしい。内容までは知らない辰巳だが、フレデリックが愉しそうに言っていたくらいだ、ロクなゲームでもなさそうだが情報くらいは入れてやろうと思う。クリストファーには色々と世話になっている。
それを話せば、クリストファーはくつくつと喉を鳴らすように嗤った。
「くくっ、お前はいい子だ…辰巳」
「はぁん? 何だよ急に気持ち悪ぃな」
唐突にいい子だなどと言われて顔を顰めて隣を見れば、クリストファーもまた辰巳を見ていた。辰巳よりも少しだけ低い位置から覗き込むように見上げてくるクリストファーの雰囲気が、いつもと違う気がするのは気のせいだろうか。辰巳には、今のクリストファーはどこか投遣りに見えた。
そんなクリストファーが、辰巳の喉元に手を伸ばしながら囁く。
「お前も案外いい面してるよな」
「ああ? 勘弁しろよ、フレッドに殺されてぇのか?」
「お前に手を出してフレッドに殺されてやるのも、まあ悪くはないかもな」
伸ばした手を辰巳に叩き落とされ、面白そうに短く嗤ったあとでクリストファーは艶やかに微笑んでそう言った。
冗談じゃないと辰巳は思う。クリストファーに手を出されるのも御免なら、それでフレデリックが怒り狂うのも御免だ。
「あんだそりゃ。馬鹿な事言ってんじゃねぇよ」
そもそもマイケルという恋人がありながら、何を血迷った事をぬかすのかと、そう思う辰巳である。いくらクリストファーが元々遊び人であろうと、仕事よりも優先するくらい大事なくせに浮気などしている場合ではなかろうに。
真っ白な制服を纏ってダンスフロアで踊る男は二人いる。フレデリックと、マイケルだ。辰巳には、どちらも頗る男前に見える。それを浮気だなど、呆れてものも言えないとはこの事だ。
「そんな事ばっかり言ってっからお前は遊び人だって言われんだろぅが」
「悪いか?」
相変わらず遊び人気質が抜けないというのなら、教えてやろうとそう思う辰巳だった。
「まあでも、フレッドは怒ってるようだが、俺は仕方がねぇと思うぜ?」
「なにが」
「はぁん? お前がマイクを優先しちまった事をだよ」
クリストファーが惚けているだけなのか、本当に気付いていないのかは分からない。けれど、マイケルに惚れてるくせに手を出される辰巳としては放っては置けないのだ。そうでなくとも辰巳の嫁はおっかない。
「そりゃあ惚れた奴が危なけりゃ、そっち助けに行くのが当然だろう」
フレデリックは、クリストファーは本当にマイケルに惚れてると思うかなどと聞いてくるが、辰巳は自信をもって惚れていると思う。そうでなければこの男が仕事を放りだす訳がない。クリストファーもまた頗る男前である事を辰巳は知っている。
「血迷って俺なんぞに手ぇ出してねぇで、しっかり旦那だけ見とけばぁか」
「くくっ、こりゃあ…参ったね…、お前に言われんのがいちばん堪える」
ふらりと、そう言ってクリストファーは居なくなってしまった。まあ、肋骨が折れているのだ、旦那を眺めるのもそこそこに休むべきだと思う辰巳である。
そう言えばクリストファーの事で話があるとフレデリックが言っていたな…と、そんな事を思い出していれば、当人が螺旋階段を上がってくるのが見えた。どうやら早めに切り上げたらしい。
そして辰巳はこの後思い知る事になる。クリストファーが『堪える』と言い残したその意味を。フレデリックの口からもたらされたのは、クリストファーとマイケルの信じがたい過去だった。
辰巳の左腕が吊られているために、珍しくフレデリックは右肩にその頭を乗せていた。それでも辰巳の隣がフレデリックの席である事に変わりはない。
「怒ってんのかよ?」
そう辰巳が問いかけたのは、フレデリックの雰囲気がいつもと違う事にしっかりと気付いていたからである。だが、フレデリックから返ってきたのは、困惑した声色を纏った言葉だった。
「誰に…この気持ちを向けたらいいのか分からないんだ。僕は後悔しているし、怒ってもいるし、心配もしてる。悲しんでもいるけれど…全部が違う方向で正直困る」
「お前にしちゃあ珍しいな」
「そうかな。辰巳の事になると、僕はいつも迷う事ばかりだよ」
金糸の髪を、頭を抱え込むように横から撫でながら辰巳は、その髪に口付けた。
「お前をそうさせたのは俺のせいだ。まったく不甲斐ねえったらありゃしねぇな」
「僕が我儘を言った罰が当たったのかな…」
「阿呆。お前が言わなくたって俺が勝手についてったってんだよ」
いつもと違う肩に寄り掛かっているせいで落ち着かないのか、フレデリックがごそごそと頭の座りを直す。その様子に、辰巳は躰を左にずらした。組んだ脚を解いて腿の上に金色の頭を乗せる。
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