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 一瞬驚いたように目を見開いたもののすぐに顔を綻ろばせて、フレデリックは仰向けになると見下ろす辰巳の顔に手を伸ばした。うっすら残る傷痕を長い指先が辿る。 「もう…辰巳が僕を甘やかしてどうするんだい?」 「しっかり甘えといて言う台詞かよ」 「キミにこんな事をされたら…逃げられる筈がないじゃないか…」 「はぁん? だったら大人しくそこに転がってろ」  辰巳は片手で器用に煙草を抜き出すと、火を点けてフレデリックを見た。 「吸うかよ?」 「一口だけ」  咥えていた煙草を抜き出してフレデリックの口許に運べば、小さく焼ける音がして灰が伸びる。ふぅ…と僅かに下を向いて紫煙を吐き出すフレデリックの頬を、辰巳は煙草を指に挟んだまま撫でた。 「そんで? 話しておきてぇ事ってのはなんだ」 「うん…。クリスの事というか、マイクも絡むことなんだけれど…どこから話そうかな」 「そんな込み入ってんのかよ」 「込み入ってると言えば込み入ってる…かな?」  小さく首を傾げるフレデリックを見下ろして、辰巳が苦笑する。 「クリスにはね、昔付き合ってた人が居たんだよ。アレックスっていう、四つくらい年上だったのかな…。でも、彼らの恋は…叶わなかったんだ。最初からね」 「最初から叶わねぇって…そんな事があんのかよ」 「アレクはイタリア人だったんだ。って、そう言ったらキミはきっと何となく理解してくれるかな」 「まさか…」  悲しそうに微笑むフレデリックの顔が、最初から叶う事のない恋の理由を物語っている気がした。 「そのまさかだよ。彼は、イタリアンマフィアだった。それをクリスは知らなかったんだ…。でも、クリスはある日、アレクに自分の素性を明かしてしまった。それが二人にどういう結果をもたらすか…キミには分かるね、辰巳」 「クリスが生きてるって事は、そういう事なんだろうよ」 「うん…結論から言えば、アレクはその時に亡くなった。ただ…アレクを手に掛けたのはクリスなんだよ。それはアレクの希望だったけれど…それ以来、クリスは人を愛さなくなった」  クリストファーは、誰と付き合っても本気にならないのだとフレデリックは言った。 「だから俺に本気で惚れてると思うかなんて聞いたのか」 「僕も確信が持てなくてね…。クリスが今までに仕事を疎かにした事は一度もないから」 「だったら本気なんじゃねぇのかよ」  それの何が悪いのだと言う辰巳に、フレデリックは困ったように目を伏せる。 「マイクは…アレクの弟なんだ。それに…マイクは全部知ってるんだよ。僕とクリスの素性も知ってる。十八年前に、クリスがその手で自分の兄を殺した事もね…」 「嘘だろう?」 「嘘なんかじゃない。調べた僕も最初は疑ったけれど…マイクは就職を機に、後見人からすべてを聞かされてる。…彼の後見人は父上だから。マイクは本当に…僕の弟でもあるんだよ」  何も言えずにいる辰巳に、フレデリックが問いかける。 「ねえ辰巳。マイクは…本当にクリスを愛していると思うかい? 僕はね…辰巳、一度クリスを殺してるんだ。十八年前に…」 「殺した…って、生きてんじゃねぇかよ」 「数ヵ月、クリスは意識を失ってた。クリスは…顔は綺麗だけど、躰には傷痕がたくさん残っているんだよ。キミは、見た事がないかもしれないけれど…彼の背中には、その時に僕がつけた大きな傷痕がある」 「まったくとんでもねぇ話だな…」  ガシガシと頭を掻いて、辰巳はフレデリックを真っ直ぐ見下ろした。 「俺にはマイクが何を考えてクリスと付き合ってんのかは分かんねぇよ。だがなフレッド、クリスがもし自分の気持ちに気付いたとしたなら蓋をしちまう可能性もある。それだけはあっちゃならねぇだろう」 「どうかな…。もしマイクが本気でないのなら…その方が僕は幸せだと思うんだ」 「あのクソ真面目なマイクにそんな裏があるようには、俺にはとてもじゃねぇが思えねぇな」 「ならキミは…マイクが本当にクリスを愛してると…?」  むしろ、すべてを知った上でクリストファーに近付いたのだとしたら、それこそが本気なのではないかと思う辰巳だ。辰巳とてそうマイケルの事を知っている訳ではないが、身内を殺された復讐をするような人間には、どうしても見えない。ただの勘だが。  それを辰巳が言えば、フレデリックは泣きそうな顔をして笑った。 「キミの勘を…信じたいよ辰巳。僕はもう二度と、クリスに同じ事をしたくない」 「だったら、そうやってクリスに言って来いよ。どうせ素性が知れてんなら、洗いざらいぶちまけて、その上でマイクに振られんならそん時はそん時だろうが。それは俺らが心配する事じゃねぇ。お前は、あいつの兄貴だろう? 面倒見れっとこまでは見てやれよ」  フレデリックが、腕を持ち上げて時間を確認する。もう間もなく、ダンスパーティーも終了しようという時間だった。 「辰巳。せっかくのキミの誕生日に最初から最後までお願いばかりだけど…僕に時間をくれないか?」 「構わねぇよ」  クリストファーが、ダンスフロアで去り際に『堪える』と言った意味を、辰巳は理解していた。ずっと人を愛さずにきたというのに、気持ちを自覚してしまった時の衝撃は大きい。辰巳もそれは経験しているのだ。  しかもそれが失った恋人のためだというならなおの事だろうと、そう思う。 「ついでに、死にたがりも程々にしとけって説教しとけや」 「気付いていたのかい?」 「俺に手ぇ出してフレッドに殺されるのも悪くねぇなんて真顔で言われりゃあな。妙に投遣りだった理由がようやく分かったよ」  ガシガシと頭を掻く辰巳に、フレデリックは微笑んだ。本当にこの男は他人の機微を読むことに長けている。  クリストファーは人を愛さなくなったと同時に、命を軽視するようになった。マイケルへの感情に気付いてしまった今、クリストファーが投遣りになっていても不思議でない事は、フレデリックにはよく分かっている。 「キミは本当に他人には鋭いねぇ辰巳? ついでにマイクの気持ちも確かめてしまおうかな」 「はぁん? どうするつもりだ?」  土産を持って帰って来てから話すと、そう言ってフレデリックは部屋を出て行った。どうやら時間がないらしい。  ようやく普段の調子に戻りつつあるフレデリックを辰巳は見送って、煙草に火を点けた。フレデリックの口からもたらされたクリストファーとマイケルの過去は、俄かに信じがたい。だが、フレデリックやクリストファーの生きている世界はそういう世界なのだ。それは、辰巳などとも違う、厳しい掟に縛られた世界。   ◇   ◆   ◇  翌朝。目を覚ました辰巳はいつの間にやら寝台の上に転がっていた。いつ寝たのかすら記憶にない辰巳である。ご丁寧に何も纏っていないところを見ると、どうやらフレデリックが昨晩運んでくれたらしい。胸の上に乗った金色の頭をぼんやりと眺めて、辰巳は眩しそうにその目を眇めた。  ふと、昨夜フレデリックが言っていた土産とは何だろうかと思い出す。 「おいフレッド。ちょっと起きろ」 「おはよう辰巳…」  言いながら寝起きに口付けるフレデリックを気にした様子もなく、辰巳は疑問を口にする。 「お前昨日言ってた土産ってなんだ。あとマイクの気持ちを確かめるとか言ってやがっただろ」 「そうそう。きっと今頃はもうクリスもマイクも大方は知っているだろうからね。マイクの覚悟とやらを、見せてもらおうかと思ってさ」 「あぁん? 覚悟? ってお前、人でも殺させる気で居んじゃねぇだろうな。あいつは素性知っててもカタギだろう」  もちろん人を殺すような事はさせないと、そう言ってフレデリックはにっこりと微笑んだ。その笑顔は、いつものように胡散臭い。調子を取り戻したと喜ぶべきか、質の悪さを嘆くべきか迷う辰巳である。  不意に昨夜聞きそびれていたことを思い出して、辰巳は口を開いた。 「アレク…だったか? マイクの兄貴はどうしてクリスの手でなんて事になったんだ? 結局はアレクも素性を明かしたのかよ?」 「クリスは、アレクがマフィアだった事は今も知らない。これはたぶん…マイクも知らない筈だよ。僕も父上から、当時口止めされているからね。クリスは今も、掟を破ったがためにアレクを失ったとそう思ってる。それはマイクも同じだろうね」 「なんだってアドルフは自分が恨まれるように仕向ける」 「父上は、本当はとても優しいって事かな」  そう言ってフレデリックは困ったような顔で微笑んで見せた。 「どう足掻いても叶わない二人の関係に父上がしてあげられたのは、アレクに惨い死に方をさせない事くらいだったんだよ。その時に、アレクはどうせ殺されるのなら自分はクリスの手で殺されたいと、父上に願った。アレクと、父上と、二人が何を考えてそう言ったのかは分からないけど、父上はその願いを聞き入れたんだ」  アドルフはすべてを知っていたのだと、そうフレデリックは言った。 「父上はアレクの身代わりをたてて向こうのファミリーに拾わせた。クリスも、実際に酷い処罰を受けた訳だし…その情報と共にね。一歩間違えたらファミリー同士の抗争になりかねない中で、父上はクリスとアレクのためになすべき事をちゃんとしてた。きっと父上は、アレクの我儘を聞いたんじゃないかな。アレクは…クリスを愛していたから…アレクが隠しておきたかった事実を、父上も一緒になって隠したんだと思う」 「それでマイクの後見人も買って出たのか」 「マイクは当時十七歳だったからね。兄弟二人で暮らしていた彼らから、アレクを奪った以上面倒を見るのは当然だとでも父上は思ってるんじゃないかな。父上がマイクの後見人になっていたのは、僕も調べて知った事だから詳しくは分からないけど」  父上は偉大だ。と、大仰にそう言って微笑むフレデリックがどこか誇らしげに見えて、辰巳は目元を緩めた。  サウサンプトンを出航する時に、嫁に頼まれたと言ってデジカメを持って現れたアドルフの姿を思い出す。あまり多くを語らないアドルフだが、その目はとても穏やかだった。  結局話を逸らしてしまって聞きそびれた土産はなんなのだと辰巳が問えば、バルコニーに転がってると、フレデリックはあっさりとした口調で言った。  それだけで、辰巳はフレデリックが何を持って帰ってきたのか分かってしまう。 「三人か?」 「いや? 二人は今頃魚の餌じゃないかな?」 「ああそうかよ…」  大方、左腕を斬りつけた男でも連れてきたのだろうと見当をつける辰巳の勘は当たっていた。だが、それを見に行こうとは思わない辰巳である。  そのまま寝台に転がっていれば、なにやらフレデリックがごそごそと辰巳の躰をまさぐり始めた。つい今しがたまで真面目な話をしていたと思えば、すぐにこれである。 「ったく…朝っぱらから何してんだお前は」 「お仕置き」 「仕置きだぁ?」  眉根を寄せる辰巳に、フレデリックはクスリと笑ってその下肢を掴みあげた。息を詰める辰巳に構う事なく扱き上げ、完全に勃ちあがらせて欲望を煽る。やがて腹につく程まで反り返った辰巳の屹立が透明な糸を垂らし始めると、フレデリックはその手をあっさりと引いた。 「はっ…ぁ…てめ…」 「僕は優しいから、辰巳が自分でどうにかするのはとめないよ?」  クスクスと笑いながらそう言って、フレデリックはあっさりと寝台を降りた。リビングのテーブルから煙草を一本だけ抜き出して火を点ける。辰巳に煙草を吸う余裕などないのは分かりきっていた。  いつものようにコーヒーを用意しに咥え煙草で向かうフレデリックは、辰巳が自慰などした事がないと知っている。例えあったとしても、人前で衒いもなくできるようなタイプではない。  コーヒーを持ってフレデリックは寝台へと戻ると、横たわる辰巳を愉しそうに眺め下ろした。深く呼吸をするたびに隆起する腹筋の上で存在を誇示した雄芯が上下する様は、生々しくてとてつもなく卑猥だ。  じろりと睨みあげる辰巳の腹筋を、長い指先が辿る。 「フレッド…、お前なぁ…」 「ほら、右手は無事なんだし…しようと思えば自分でどうにか出来るだろう?」 「だったらてめぇが席外せよッ」 「駄目だよ。それじゃお仕置きにならない。僕は…キミが傷付くのが許せないって常々言ってるだろう? 辰巳。なのにキミはそうやって怪我をして帰ってくるんだ」  硬い雄芯だけに触らずに、フレデリックは優雅にコーヒーを飲みながら辰巳の躰に指を這わせた。刺激に敏感な場所を辿る度にぴくりと震えて反応を示す辰巳の躰は、もはやフレデリックの思うがままと言ってもいい。  最初こそ慣らしもせずに辰巳に犯されたフレデリックだったが、それから十一年をかけて辰巳の躰を作り替えてきたのである。辰巳に逃げようなどなかった。 「ぁ…っぅ、てめぇマジで…どっか行けよ」 「今更恥ずかしがることもないだろう?」  変わらず睨む辰巳の耳を、フレデリックの唇が食む。わざとらしく水音を吹き込んで低く囁いた。 「ねえ辰巳…見られてると思うと…気持ち良くなってこないかい? それとも…恥ずかしくて出来ないからシテくださいって僕にお願いしてくれる?」 「はっ…あ…、ふざけんな…っ」 「気持ち良いのは好きなくせに、どうしてそう強情なのかな?」  にやりと、フレデリックは口許を歪ませて辰巳の右手を掴んだ。そのまま下肢へと持って行って辰巳の大きな手ごと屹立を握り込む。無造作に擦り上げれば、辰巳の口から声が漏れた。 「んあっ…あっ、フレッド…ッ」 「ほら、気持ち良いね…辰巳?」 「あ…良い…ッ」  ほんの僅かな刺激だけで、辰巳の躰は陥落した。強情な割に、快楽に弱い辰巳が愛おしいと思うフレデリックだ。  幾度か擦り上げ先端の蜜を辰巳の指に絡ませてやる。 「もう、僕が手伝わなくても出来るね?」 「はっ…ああ…ぁッ」

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