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『マイケル。お前がクリスのためにしてやれるのは、その程度の事だ。お前たちが駄々を捏ねるので私はここまで来てやった。それで十分ではないのか?』
アドルフが言う事は、間違ってはいない。こんな場所まで来なくとも、クリストファーの我儘など一蹴できる立場にアドルフはある。それでもこうして足を運んできたのは、クリストファーの相手がマイケルだからである。マイケルもまた、アドルフの息子のようなものだった。
だが、小さく首を振るマイケルに、今度こそフレデリックは笑みを浮かべた。隣に座る辰巳もまた、面白そうにマイケルを眺めている。
『申し訳ないがアドルフ、私には私の守るべき家族がこの船に居る。もちろんクリスもその一人だ。それを投げ出していく事はできない。私とクリスはどちらもきちんと仕事を全うする。その為に互いが必要だと、そう言っているんです。貴方ほどの男が私を女と勘違いしているとは思いたくもないが、私には私の職務がある。そこはご理解頂きたい』
マイケルの言葉に、アドルフが驚いたように僅かに目を見開いた。辰巳もまた、フレデリックの隣でくつくつと喉の奥を鳴らしている。まったく、真面目も突き抜けると清々しいものだと思えば、フレデリックは笑わずにはいられなかった。
『父上、マイクはこういう男ですよ。僕たちの斜め上を行くでしょう?』
『随分と変わった男に育ったものだ。お前が買っている理由はこれか? フレッド』
『そうですねぇ、クリスもマイクも…僕の可愛い弟ですから』
フレデリックにとって、クリストファーもマイケルも、可愛い弟たちである事に変わりはない。だが、それだけではない事情が、フレデリックにはある。ゆっくりと、机の上で手を組んだ。
『それに、マイクにこの船を降りられると僕も困ってしまうんですよ。父上』
そう。今マイケルにこの船を降りられては、フレデリックは困ってしまう。せっかくマイケルに跡目を譲って心置きなく辰巳の家に嫁げるというのに、それを台無しにされては頗る困る。
フレデリックが言えば、隣で辰巳がわざとらしい声を上げた。
「あー…そりゃあ俺も困っちまうなぁ。今更、日本に帰ってフレッドがいねぇんじゃ身の回りが不便で仕方ねぇ」
向かい側で、マイケルとクリストファーの目が驚いたように見開かれるのが、フレデリックにも辰巳にも見えていた。フレデリックは、クスクスと楽しそうに笑いながらアドルフを見据える。
『どうです父上、ひとつゲームをしませんか。貴方が簡単に引き下がれない事は、僕たちも重々承知しています。どうせ貴方はまた十八年前と同じようにするつもりでしょう? だったら、期限を切って総力戦と行こうじゃありませんか。ルールは簡単だ、貴方の手駒から僕たちはマイクを守る。それでも不足だというのなら、僕たちはまた貴方を攫って脅すだけの事ですが』
机の上に手を組むフレデリックの右側で、辰巳が口角を歪ませる。
「それか、代替案を出してやってもいいぜ? アドルフ。俺たちが暴れるとあんたの飼い犬が居なくなっちまうからな」
『聞いておこうか』
「あんたが大人しく引き下がるって言うなら、フレッドが今まで通りの仕事をこなす。暇だったら俺も手を貸してやんよ。それでどうだ?」
ここでアドルフが引き下がってくれるのなら万々歳だと思うフレデリックの希望はだが、あさっさりと裏切られた。アドルフが小さく息を吐くと同時に、入口から五人の男たちが部屋に入ってくる。一目でセキュリティースタッフと分かる男たちに、フレデリックは溜め息を吐いた。
『面倒だ。今ここでケリをつけよう』
アドルフが静かに告げると同時に、クリストファーが入口の男たちに向って捉えていた黒服を突き飛ばした。難を逃れたスタッフがマイケルに向うのを確認して、フレデリックは机を乗り越える。
「ははっ、相変わらず好きだな親父?」
『遊びではない』
「んな事ぁ知ってるよ」
辰巳がアドルフの元へと向かう。黒服がひとり残っているが、辰巳に任せておけば問題はないだろうと、そう思うフレデリックである。
フレデリックがクリストファーとともにマイケルを挟むようにして立つと、不安そうなマイケルの声が聞こえてきた。
『ッ…クリス』
『大丈夫だミシェル。心配はない』
飼い犬が一匹とスタッフが五人。確かにクリストファーの言う通り、たいした事はないとそう思う。但し、マイケルが妙な真似をしなければ。
『マイク。是非とも大人しくしているように』
『フレッド……』
マイケルの緊張をはらんだ声を聴きながら、フレデリックは辰巳が黒服と対峙するのを視界の端にしっかりと捉えていた。
さすがにクリストファーとフレデリックを相手に無謀に突っ込んでは来ないスタッフに、クリストファーが先手を打った。並んで立つ二人の右側に一瞬にして間合いを詰めると、すぐさましゃがみ込んで脚を払う。その速さは、フレデリックをも上回る。スタッフからすれば、クリストファーが目の前から消えたように見えるかもしれない。
『クリス、くれぐれもスタッフに大きな怪我は負わせないように。業務に支障が出る』
『分かってる』
クリストファーが二人目のスタッフに取り掛かるのと同時に、フレデリックは黒服の腕を取って床に叩きつけた。その後ろで、マイケルが動く気配に視線を走らせる。辰巳が突飛ばした向こうの黒服を避けたアドルフの腕を、マイケルが掴もうとするのが見てとれた。
マイケルの動きは、クリストファーも気付いている筈だ。フレデリックは思わず呆れたように言う。
『キミの彼氏も随分と好奇心が旺盛だね』
『ありゃあ天然だろう』
『まあ、辰巳のところなら好都合…かな』
黒服の鳩尾に膝を入れて躰をひっくり返しながらフレデリックが見ていれば、アドルフがマイケルを投げ飛ばした。マイケルの躰が壁に激突してずり落ちる。銃を抜くアドルフの目の前に、辰巳が立ち上がるのが見えた。
黒服の首を締め落とし、突っ込んでくるスタッフの躰を躱す。同時にフレデリックはスタッフの側頭部を強打した。運悪くスタッフの下敷きになった黒服は可哀相だが、そんな事は知った事ではない。残りのスタッフは二人だ。
銃声が響いて、向こうの黒服の背中が撃ち抜かれる。それは、アドルフの腕を辰巳が蹴り飛ばしたからだった。飼い犬が減ると辰巳が言ったその通りである。
フレデリックの視界の端で、アドルフがマイケルに銃口を向けるのが見えた。辰巳がその手を躊躇なく撃ち抜く。
『クリス、後は頼んだよ』
『ああ』
短い遣り取りをしながら、フレデリックは右肩に吊るしたオートマチックを抜いた。それは、辰巳に撃ち抜かれたアドルフの手から、もう片方の無事な手に銃が渡ったからだ。辰巳は、その速さについて行けない。
アドルフの銃口の先で、辰巳がマイケルに覆いかぶさるように背中を向ける。フレデリックは引き鉄を引いた。
手慣れた反動とともに発射された銃弾がアドルフの腕を撃ち抜く。ゴツリと重そうな音を立てて床に落ちた銃と、次いでこちらを見るアドルフにフレデリックは微笑んだ。
『いくら貴方でも、僕の辰巳を傷付ける事は許さない』
辰巳は、怖くなかっただろうかと、そんな事を思うフレデリックである。その背後では、クリストファーが残りのスタッフを片付け、ポケットから抜き出したタイラップで全員を後ろ手に拘束していた。
フレデリックは、諦めたように小さく首を振るアドルフの元へ向かう。
『いい年をして無茶をなさいますね貴方は。どうして大人しく辰巳に捕まってくださらないんですか』
言いながら、ポケットから抜き出したハンカチでアドルフの上腕部を両腕ともきつく縛り上げた。両腕を使えなくしてまでもマイケルを狙うとは、本当に年甲斐もない。
だが、アドルフは表情一つ変えずにフレデリックを見上げて言った。
『私にそれを言うのは間違っている』
『ええそうでしょうとも。危うく辰巳ごと撃たれるところでした。許されるなら今すぐにでも貴方を殺して差し上げたいくらいだ。マイク、メディカルセンターに連絡を』
マイケルが携帯でメディカルセンターに連絡を入れるのを確認して、フレデリックは上着を脱いだ。両腕を赤く染めたアドルフの肩に掛けると、そのまま背に手を回す。寄り添うように会議室を出たフレデリックとアドルフは、その足でメディカルセンターへと向かった。
不意に、アドルフが口を開く。その声は、とても静かなものだった。
『あれは、お前の入れ知恵か?』
『何の事です』
『辰巳に、マイケルを守らせた』
真っ直ぐ前を見据えたまま話すアドルフに、フレデリックもまた前を見たままで答える。
『あれは辰巳の意思ですよ。彼は、誰を守る時でも全力だ』
『それをお前は守ってやりたくなったと言うのか』
『さっき言ったでしょう? 僕は、辰巳を傷付ける者は許さない。貴方が、母上を守るように、僕は辰巳を守る』
『危険に曝しておいて守るとは、良く言えたものだが…』
アドルフの言葉は、間違っていない。本当に大切だと思うのなら、辰巳を危険な目に遭わせるような場所へ連れて行かないというのが最善だろう。それは、フレデリックにも分かっている。
『父上のおかげですよ。貴方やクリスと違って、僕は僕の力で辰巳を守れる。だから僕は、自分の我儘で彼と一緒に居ることが出来る。いつでも、どこでもね』
感謝していますよ。と、そう言ってフレデリックは低く嗤った。
『ねえ父上、僕を拾ってくれて、僕に力を与えてくれて、貴方には本当に感謝しているんです。だから僕は、これからも貴方の道具として使われることに何の不満もない。それでは、満足できませんか?』
『そういう事を言っているのではない、フレッド。私はただ、お前に感謝している。この手で…息子を撃たずに済んだ。辰巳にも伝えてくれ。私の立場では、お前たちのように腕では済まない』
クスリと、フレデリックは笑いを漏らした。自分よりも低い位置にあるアドルフの顔を、腰を折って横から覗き込む。フレデリックの眉間には、僅かに皴が寄っていた。
『なんだ』
『父上は、わかりにくいなぁ…と。顔を見れば分かるかと思いまして』
『それで? 私の顔を覗き込んだお前は、分かったのか』
『いえ全然。両腕はやり過ぎたと、ちょっとだけ後悔してるくらいの事しか僕には分かりませんよ』
フレデリックの言葉に、アドルフは喉の奥で笑った。
『残念だがそれは外れている』
『では、何を?』
『両腕など安いものだ』
なるほど。と、そう思うフレデリックである。アドルフは、フレデリックなどよりもっと縛られた世界にいるのかもしれないと、そう思う。
『まったく、貴方には敵いませんね』
言いながら、フレデリックはガシガシと頭を掻いた。すぐ目の前に見えるメディカルセンターの入口には、すでに看護師が待機している。一度会議室へ戻る旨を伝え、フレデリックはアドルフを看護師に引き渡した。
会議室に残っていたスタッフと黒服にフレデリックが指示を出し、辰巳とマイケル、クリストファーの四人は部屋へと戻った。掃除の手配はメディカルセンターから戻る途中に済ませてあるフレデリックだ。
幾つかの話をマイケルとクリストファーに打ち明けたフレデリックは、ようやく静かな時間を迎えることが出来たのだった。
変わらず辰巳の左肩に頭をもたせ掛けたフレデリックの顔には、珍しく僅かな疲れが浮かんでいた。この船のスタッフを相手にするのは、フレデリックにとって気を遣う。大怪我を負わせる訳にはいかないのだ。
セキュリティーの人間という事もあって彼らも鍛えてはいるが、だからといって本気で掴みかかってくる彼らを本気で殴り飛ばす訳にもいかなかった。そうでなくともガラの宜しくない彼らだ、顔を腫れあがらせていては乗客が怖がる。
小さく息を吐いたフレデリックの髪を、辰巳が撫でていた。辰巳は案外頭を撫でるのが好きだと、そう思うフレデリックである。どうせなら頬とか首とかも撫でて欲しいという希望は、まだ伝えられずにいる。
「疲れたかよ?」
「少し…疲れたかな」
フレデリックがそう言えば、辰巳は何という事もなくそうか…と、応えただけだった。
「父上が、辰巳にありがとうと言っていたよ」
「あん?」
「マイクを撃たずに済んだと、そう言ってた」
「なるほど。お前らの住んでる世界は、どうにもめんどくさくていけねぇな」
フレデリックと同じように、アドルフもまた縛られた世界に生きているのだと、辰巳が理解するのに難はなかった。ヤクザなどの方がよほど自由だと、そう思えば苦笑が漏れる辰巳である。
不意に匡成《まさなり》の顔が浮かんで、そういえばもう随分と会っていないのだと気付く。
元より辰巳の暮らす本宅に帰ってくる事もそう多くはない匡成だが、ここまで長い間顔を見ないというのはなかったのではないかと思う。
「たまには親父にでも電話してみっかな」
「きっと揶揄われるよ」
「間違いねぇ」
「でも、僕も匡成の声が聞きたいな」
辰巳とフレデリックは顔を見合わせた。時計を確認してふと手を止めた辰巳に、フレデリックが微笑む。どうやら時差の心配をしている事はすぐに分かった。
「今だと、日本の方が二時間遅いかな」
「なら丁度いいか」
「そうだね」
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