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「おっかねぇ坊主だな。相手してやってもいいが、おっさんこれから用事があんだよ。手短に済ませてくれるってんなら、付き合ってやんぜ?」 「上等だよクソがッ」  少年が横から放つ蹴りを、辰巳が片手で受け止める。すぐさま足を引く少年の胸ぐらを辰巳は掴んだ。引き寄せると同時に腕を振って少年の躰を壁に押し付け鳩尾を膝で蹴り上げる。堪らず前のめりになる少年の胸ぐらを離し、今度は髪を掴みあげた。  苦痛に歪んだ顔が辰巳を見上げた。 「可愛らしい顔は、勘弁してやるよ」  ニッと笑って言いながらもう一度鳩尾に拳を突き込んだ。辰巳が立ち上がる。 「威勢が良いのは構わねぇが、ちっとは相手みて喧嘩吹っかけろよ坊主」 「っざけんな…テメェ…そのツラ覚えたからな」 「はぁん? また会う事がありゃあいくらでも相手してやるよ。じゃあな」  ひらひらと手を振って、辰巳とフレデリックは路地を後にした。食前の運動というには物足りないが、空腹をより空腹にするのには役に立ったようである。 「くっそ、腹減ったじゃねぇか」 「どうせこれから食事だし、ちょうどいいんじゃないかい?」  匡成との約束の店は、すぐそこだった。店に名前を告げればスタッフに個室へと案内される。だが、部屋に入った瞬間、辰巳の足はピタリと止まった。  急に立ち止まってしまった辰巳をフレデリックが訝し気に振り返る。 「どうしたんだい?」 「おま…松井か?」  だがフレデリックの問いかけは、綺麗に無視された。眉根を寄せた辰巳が女の顔をまじまじと見つめる。  松井雪乃《まついゆきの》。匡成の隣に座る女は、辰巳の高校時代の同級生だった。雪乃の方は驚いた様子もない。  ひらひらと辰巳に向って手を振る雪乃は、高校の時とそう変わらぬ体型を維持していた。高校生にしては肉付きが良く、括れ過ぎないウエストの持ち主だ。性格は、まあ明るい。というか煩い。 「久し振り~。ってか何その傷! ガラ悪っ」 「うるせぇなどうでもいいだろうが。つかなんでお前が…ってまさか…」 「そうそう。匡成さんとあたし結婚するの~♪」  勘弁してくれと、そう言って項垂れる辰巳を、フレデリックが唖然とした表情で見る。匡成は匡成で、雪乃の隣で腹を抱えて笑っていた。  どうやら匡成の再婚相手が辰巳の知り合いだという事を察したフレデリックは、辰巳の肩を軽く叩いた。 「知り合いなのかい?」 「あー…アレ、俺のタメで松井雪乃っつぅんだ」 「え? じゃあ同じ年で辰巳の…お母さん?」 「やってられっか」  辰巳と雪乃を見比べたのちに、フレデリックが匡成を見る。まあ座れと、そういう匡成に辰巳が渋々と円卓に着くのをみて、フレデリックも隣に座った。 「まあ一意はさておき…雪乃、こっちの金髪の坊主がフレッドだ」 「どうも、雪乃です。フレッドさん?」 「ああ、フレデリックです。フレッドは略称で…はじめまして」 「へえ~、一意はガラ悪いけど、フレッドさんはかっこいいね!」  美形だなんだと匡成に喜んでみせる雪乃の姿に、辰巳はげんなりと項垂れた。ガラが悪いと言われても突っ掛かる気力すらない辰巳である。  フレデリックが心配そうに辰巳を見遣るその前で、匡成が雪乃に問いかけた。 「一哉《かずや》はまだか」 「あー…時間言っておいたんだけどなぁ! 反抗期で参っちゃうんだよね」  匡成と雪乃の遣り取りに、辰巳が顔を上げる。その表情は胡乱気だ。 「おい親父てめぇ…子供って連れ子か…」 「おう」 「そうそう、あたしの息子。一哉っていうの。あっ、着いたってラインきた」  スマートフォンを見ていた雪乃があっけらかんとした口調で言う。もう既にどうにでもなれという気分の辰巳だったが、災難はまだ終わってはいなかったのである。  遅れて案内されてきた雪乃の息子を見た瞬間、思わず辰巳は立ち上がった。 「お前!?」 「テメェ!!」  そこに立っていたのは、裏路地でスリを蹴り飛ばした少年だった。フレデリックが嘘だろう…と、小さく呟く。  睨み合う二人に、匡成の怠そうな声がかかる。 「顔合わすなり兄弟喧嘩してんじゃねぇよ鬱陶しい。おい一哉、遅れた理由を説明しろ」 「スリに遭って…」 「スリだぁ? お前つくならもうちっとマシな嘘を吐けよ?」 「いやマジだし! つかそこのおっさん二人も知ってっから!」  どうやら匡成に対しては素直な様子の一哉という少年に、辰巳は苦笑を漏らした。匡成を怒らせたことがあるのだろうと思えば大人しいのも頷ける辰巳だ。怒った時の匡成は、息子だろうと容赦がない。 「一意、お前知ってんのか」 「ああ、絡まれてたな。で、その後俺らに突っ掛かってきたんで腹に二発入れといた」 「なんだ一哉、一意に吹っ掛けたのか? お前馬鹿だな。でかさ考えろよ勝てる訳がねぇだろう」  呆れたように言う匡成の横で、雪乃が声を張り上げる。 「ってあんた顔に傷ついてんじゃない!」 「ああこれ? さっきスリに切りつけられた。別に掠っただけだし騒ぐ程じゃねぇだろ」  不貞腐れたようにそっぽを向いて言う一哉に雪乃が溜め息を吐く。  まあ座れと、再び匡成が言って辰巳は腰を下ろした。さらりと名前だけを紹介した匡成を、辰巳はげんなりとした表情で見る。同級生が母親なうえにクソほど生意気な弟など御免だと思う辰巳だ。 「おいクソ親父。これ冗談だろ?」 「冗談でわざわざ顔合わせさすかよ」  いかにも面倒臭いと言いたげな匡成に、辰巳は円卓に突っ伏したのだった。悪夢だと、そう思う。  そんな辰巳の隣で、フレデリックは一哉の視線に苛まれていた。ひたすらに無言で見つめてくる一哉に、にこりと微笑んでみるフレデリックである。  フレデリックの微笑みの胡散臭さに気付いた訳でもなかろうが、一哉は匡成へと視線を移した。 「ねえ匡成さん」 「ああ?」 「フレッドも息子って言ってたけど、どう考えても匡成さんの息子じゃないよね」 「ああ、そりゃ一意のツレだ」  匡成の言葉に、一哉が考え込むような顔をする。友達? と小さく呟く一哉に、匡成がククッと可笑しそうに嗤う。  一哉に応えたのは、円卓に突っ伏したままの辰巳だった。 「連れ合いのツレだクソガキ」 「は? 何お前らゲイ? そのガタイでゲイってシャレんなんなくね?」  明らかに嘲るような態度の一哉に、辰巳が顔を上げる。礼儀を知らない子供には躾が必要だ。辰巳は、雪乃を見ながら一哉に顎をしゃくってみせた。 「おい雪乃…このガキ泣かしていいか?」 「いいけど顔はやめてあげてね? あたしに似て可愛いから」  ふらりと立ち上がった辰巳に、一哉もまた立ち上がる。辰巳が足を踏み出そうとした瞬間、フレデリックが座ったまま手を掴んだ。見下ろす辰巳にフレデリックが愉しそうな笑顔を向ける。 「まあまあ辰巳、ここはちょっと僕に任せて欲しいな」 「あん? 別に関わねぇけどよ」  ありがとう。と、そうフレデリックは微笑んで一哉の元へと歩み寄った。フレデリックの体躯を間近に見た一哉が思わず後退る。その姿に、フレデリックがクスリと笑った。 「生意気な割に臆病なのかな?」 「ああ? 喧嘩売ってんのかテメェ」 「ふふっ、残念だけど、キミのような子供が買えるほど僕の売る喧嘩は安くない。だから少しだけ遊んであげるよ、一哉クン?」  反射的に飛び退こうとした一哉の手は、だがフレデリックに捕まれていた。 「ッ!?」 「遅いなぁ。それに、隙だらけだね?」  あっという間にフレデリックは一哉の躰を胸の前に囲ってしまう。向かい合い、まったく身動きが取れないどころか軽々と持ち上げられて、一哉の顔に焦りが浮かぶのが辰巳からも見えた。辰巳からしてみれば、当然だろうとそう思う。  目の前に持ち上げた一哉の頬の傷を、フレデリックはその舌で抉るように舐め上げた。その様子に、辰巳が呆れたように肩を竦める。仕置きにしても質が悪い。 「痛っ! ちょっ…!!」 「キミが想像してる連れ合いって言うのは…こういう事かな?」 「離せ…ッ!」  宙に浮いた足をもがかせる一哉を構う事なく、フレデリックは徐々に腕の力を強めていく。一哉の肩が軋みを上げるのがフレデリックには手に取るように分かっていた。 「痛ぇって…! 離せよテメ…」 「僕はゲイだから、キミみたいな可愛い顔の子が好みなんだよねぇ。辰巳…一意は、もっと違う…僕が命を預けられる相手なんだ。一緒にされると僕は気分が悪くなる。分かってくれるかな?」  ミシミシと軋みを上げる関節に顔を顰め、必死に頷く一哉をフレデリックは微笑んで降ろしてやった。頬をゴシゴシと袖で擦る一哉を見下ろしてフレデリックがクスクスと笑う。 「キミは可愛いね…一哉クン?」  言いながらフレデリックは一哉の額にキスを落とす。慌てて下がる一哉の様子に爆笑したのは匡成だ。 「はははははっ、おい一哉…お前、あんまり粋がってるとマジでケツ掘られるぞ? 極道なんてのは、性欲処理すんのに男でも女でも関係ねぇかんな。お前もうちにくんなら精々気を付けろよ」 「っ…マジかよ…」 「当たり前だろうが。むしろ男の方が避妊の必要もなくて手軽なんじゃねぇか? なあ一意」  面白そうに視線を寄越す匡成を辰巳は見返した。いくら避妊の必要がないからといって辰巳はフレデリック以外の男を抱いた事など一度もなかったが、確かに憂さ晴らしに男を抱く人間が存在するのは知っている。 「ああ? なんで俺に振んだよ」 「お前、男抱けんだろ?」 「そりゃ抱く気になりゃあ抱けんだろ」  あっさりと肯定する辰巳に、もはや椅子ごとずりずりと下がる一哉を雪乃が見ていた。その目には呆れたような色が浮かんでいる。  だが確かに、年頃の男子高校生にとっては、バックバージンを奪われる方が殴られるよりも恐ろしいのかもしれない。と、そう思ったのは雪乃である。一哉のように喧嘩っ早い性格ならなおさら、犯されましたなんて口が裂けても言えないだろう。 「まあ、兄弟喧嘩がしてぇんなら、兄貴らが帰って来てからたっぷり構ってもらえや一哉」  子供を揶揄うのにも飽きたのか、匡成があっさりとした口調で言った。取り敢えず座れと視線で示す匡成に、フレデリックは大人しく従う。この場では匡成がフレデリックの父親である。親に従うのは当然の事だった。  背後を通り際、するりと背中を撫でていくフレデリックを辰巳が見る。行儀悪く円卓に突っ伏したまま見上げる辰巳にフレデリックは微笑んで隣に腰を下ろした。  すっかり大人しくなった一哉は、運ばれてきた料理を黙って食べていた。その横の雪乃に動じた様子はまったくない。母は強しというが、まったくもってその通りだと思う辰巳である。 「つか雪乃、お前なんで親父と付き合いあんだよ」 「え? ぶっちゃけ高校ん時から知ってるけど? 匡成さん渋くてかっこいいなってずっと思ってて!」 「それがなんでこんな話になんだよ…」 「ほら、一哉がさぁ…見ての通りじゃん? 龍一《りゅういち》先輩のトコと揉めちゃってさぁ…匡成さんに助けてもらったんだよねー。もうマジで惚れ直した! ついでに一哉も少しは大人しくなったし? この人しかいないって思って!」  匡成の腕に抱きつきながらはしゃぐ雪乃に、辰巳は額に手を遣った。四十手前にしては雪乃も若く見えるが、それでもそうはしゃぐ年ではないと呆れる辰巳である。匡成も止めないところを見るとどうやらまんざらでもないのかとそう思う。  今更匡成が再婚しようとどうでもいい辰巳だが、さすがに同級生とは思わなかった。 「だからって普通ヤクザに嫁ぐかよ…」 「馬鹿だねー一意、あんたも結構モテてたじゃん。まあ、男なんてちょっと強面で頼りがいある方がいいと思わない?」 「阿呆か」  呆れ果てる辰巳の横で、フレデリックはふんふんと頷いた。その様子に雪乃が喰い付く。 「フレッドさん分かる!? 一意とかさぁ、結構モテてたのにまったく相手にしなくて! もったいないと思ってたんだよねー」 「辰巳はそんなにモテたのかい?」 「結構狙ってる子いたよー。あたしは昔から匡成さんの方が好みだったけどね」  フレデリックと話す雪乃は、辰巳から見ても昔とあまり変わりがないように思う。誰とでも親しく話すし、辰巳に対しても臆した様子もなかった。 「確かに辰巳も匡成も男前だからね。腕っぷしも強いし、頼りがいはあるね」 「だよね!!」  何故か気が合ったらしいフレデリックと雪乃が男前とは何たるかを披露しあう中、ふと目を上げた辰巳と一哉の視線がぶつかった。辰巳が僅かに眉を上げてみせれば、一哉がふいっと顔を背ける。視線を落とすとまた一哉がじっと見つめてきて、辰巳は苦笑を漏らした。  何か言いたい事でもあるのだろうかと思いながらも、フレデリックと雪乃が盛り上がっているので話し掛けにくい。 「でも一意とは違うけど、フレッドさんもなんかヤクザみたいな雰囲気あるよね」 「そうかな。まあ辰巳の足手まといになる訳にはいかないからね。けど、僕は元々船乗りだよ。今横浜港に入港してるクイーン・オブ・ザ・シーズでキャプテンをしてるんだ」 「えっ!! めちゃくちゃ凄くない!? 豪華客船じゃん!!」 「ふふっ、そう言ってもらえると嬉しいな」

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