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見たい! と、そう言ってはしゃぐ雪乃を匡成が横目で見遣り、小さく肩を竦める。停泊中に遊べるのかと問う匡成に、フレデリックは乗船するのなら手配をすると答えた。
現在辰巳と旅行中なのだとフレデリックが微笑めば、雪乃が真顔になる。急に真顔になってどうしたのかと思っていれば、雪乃は匡成の袖を引いた。
「ねえ、一意ってただのヤクザじゃないの? てかヤクザってそんなに儲かるもんなの?」
「ああ? 何だ急に…」
「だって匡成さん、フレッドさんの言ってる船って、グレードにもよるけど一回のクルーズで一千万からかかるんだよ!?」
「一意だって蓄えくらいはあんだろうよ」
どうやら雪乃は、案外金銭感覚がしっかりしているらしいと思う辰巳である。正直な話、匡成も含めて辰巳自身もあまり金額などに拘った事がない。それはフレデリックにしても同じ事だった。
金が欲しければ稼げばいいくらいにしか思っていないのである。
「あー…でもフレッドさんあんな客船のキャプテンなら普通にそういう旅行できちゃうのかー…やっぱ住む世界が違うわ」
がっくりと項垂れる雪乃に、匡成が揶揄うように問いかける。
「なんだ雪乃、お前も船旅がしてぇのか?」
「憧れはするけどねー。でも肩こりそう。温泉でいいわー」
「案外ババアくせぇなお前。せめて海外とかあんだろう。一意らが帰ってきたら連れてってやるから行きてぇ場所考えておけよ」
「うわー! 匡成さん大好きっ」
さすがに抱きつかれるのは照れるのか、匡成は雪乃を押し返した。まったくいい歳こいていちゃついてんじゃねぇぞと言いたくなる辰巳だ。まして息子の前でよくもまあ…などと思いつつ一哉を見遣れば、やはり視線がぶつかる。
何をそんなに見られているのかが辰巳は不思議でならない。
「おい一哉。お前、さっきから人の事みてどうした。何か言いてぇ事があんなら言えよ?」
「おっさん喧嘩強いの?」
「さあ? なんだお前、喧嘩強くなりてぇのかよ」
「だって匡成さんとかくっそ強いじゃん」
高校生の頃をふと思い出してみる辰巳である。言われてみれば殴り合いなど日常茶飯事だった事を思い出して、まあ一哉が強くなりたいと思うのも普通なのかと納得した。だがしかし、そんな辰巳の考えを吹き飛ばしたのは雪乃の声だ。
「あんたねぇ、喧嘩なんかいくら強くても飯の種にもなんないって言ってるでしょ? 勉強しなさいよ。匡成さんだって一意だってただ喧嘩が強いって訳じゃないんだからね!?」
「まあそう言ってやんなよ雪乃。一哉だってそう馬鹿じゃねぇだろう?」
「だって匡成さん、大学も行かないとか言ってるんだよこいつ。ホント信じらんない」
どうやら雪乃は辰巳が思っているよりもしっかり母親をしているようだ。そう思えばまあ、匡成とくっついたところで問題もなさそうな気がする辰巳である。立場上は母親だったとしても、雪乃が母親面をしたがるような性格でない事は話していればすぐに分かった。
今時大学くらいと嘆く雪乃の言う通り、宥める匡成もさることながら辰巳も大学は出ている。ヤクザだからといって腕っぷしだけで食っていける筈もない。昔はどうあれ、今は頭を使うような仕事の方が多いのだ。
匡成が溜め息を吐く。
「そうだなぁ一哉、お前、一意の跡継ぎてぇってんなら大学は行け。今時分腕っぷしで頭張ろうなんざ流行らねぇよ。お前どうせ旅行も行く気ねえって言ってたろう。だったらちょうどいいから兄貴ら帰ってきたら本宅で面倒見てもらえ」
さらっと言い放つ匡成に食って掛かったのは、もちろん辰巳である。子守りなど聞いていない。
「はあ!? ふざけんなクソ親父、俺らに押し付けんじゃねぇよ」
「ああ? 親に向って舐めた口利いてっと張り倒すぞクソガキ。跡取りの面倒くらい手前でみんのは当然だろうが」
ぐうの音も出ないとはこの事である。匡成の言っている事が正しすぎて、辰巳に返す言葉はなかった。匡成の息子ではあるが、一哉は辰巳の跡を継ぐのである。面倒を見るのは当然の事だった。
かくして随分と威勢のいい跡取りを得た辰巳である。フレデリックとの新婚旅行が終われば、今度は子育てという訳だ。
だがしかしこの時、フレデリックは既に気付いていた。辰巳の本宅である日本家屋には、プライバシーなどまったくないという重大な事実に。
それなのに一哉と一緒に暮らすとなれば、辰巳といちゃつける空間がないという由々しき事態に陥るのである。これは早急にどうにかせねばとフレデリックが思うのは当然の事だった。
「匡成。僕と辰巳は日本に戻ってもあの家には住まないよ。マンションを買う!」
「はあ? フレッドお前何言ってんだ急に…」
「いいから辰巳は黙ってて。一哉の面倒は本宅に通いで見る。それなら問題はないね?」
はっきりきっぱり言ってのけるフレデリックに、匡成はククッと喉を鳴らして嗤った。どうやらフレデリックの言わんとしている事は伝わっているらしい。
「構わねぇよ。俺はお前らの関係に口を出すつもりはねぇからな。馬鹿息子の尻拭いはしてやったんだ、後はお前らで好きにしろ」
「最高だ匡成。一哉の面倒は僕が責任を持ってみるよ。辰巳の大事な跡取りだからね」
本人を無視して決まっていく話に、一哉は何も言う事が出来ないでいるようだった。雪乃はと言えば匡成にキラキラとした視線を送っている。
もはやフレデリックが乗り気になってしまった以上、辰巳にも言える事はない。嫁とは、恐ろしい生き物である。
突拍子もなくマンションを買うなどと言い出した嫁のために稼いでやるかと思う辰巳は、旦那としての務めをしっかりと理解していた。むしろ子守りなど出来る気がしない辰巳にとって、フレデリックに背く事は自殺行為だ。
◇ ◆ ◇
翌朝。辰巳が目を覚ますと、胸の上に金色の頭がなかった。あるべきものがない事で辰巳は思わずガバッと上体を起こしたが、それはすぐに再び寝台の上に沈んだ。声が聞こえたからだった。
どうやらリビングに居るらしいフレデリックの声は、誰かと話している。一瞬電話か何かかと思ったが、もう一人の声が聞こえてきて今度こそ辰巳はその躰を起こした。
寝台から降り立った辰巳は大股で部屋を横切りリビングへと向かう。前回のクルーズでは部屋の仕様で寝室とリビングとの間に壁のない間取りになっていたが、今回は扉はなくとも仕切りの壁があった。その横を、通り抜ける。
かくしてリビングの見える場所まで移動した辰巳は、予想通りの声の主をソファに見つけて顔を顰めた。そんな辰巳に、フレデリックが気付く。
「おはよう辰巳。…起きたのはいいけれど、その恰好は…ちょっと…」
「あぁん? 勝手に人の部屋に乗り込んできてるガキのために、どうして俺が気を遣ってやんなきゃなんねぇんだよ」
「そう言うと思ったけれどね…」
肩を竦めるフレデリックの隣にどかっと腰を下ろした辰巳は、布一枚身につけてはいない。入れ替わるようにフレデリックが立ち上がる。
そんな辰巳を侵入者もとい一哉は引き攣った表情で見つめた。その視線にしっかりと気付いた辰巳が不機嫌そうな声を上げる。
「なに見てんだお前。つぅか何しに来た」
「っ…匡成さんとおふくろに連れてこられたんだよ。つか全裸で寝てんのかよあんた」
「ああ? 人がどんな格好で寝ようがお前にゃ関係ねぇだろぅが」
一哉が居ようとも気にせず煙草を点ける辰巳の前にコーヒーを置きながら、フレデリックがまあまあと宥める。寝室へと消えたフレデリックを見遣って、辰巳は一哉へと視線を移した。そこには、視線を泳がせる一哉の姿がある。
「なんだお前、もしかして恥ずかしがってんのか?」
「目のやり場に困るに決まってんだろ!」
「はぁん? 野郎のくせに何言ってんだお前」
あっさりと吐き捨てる辰巳には、身内に対する羞恥心などない。むしろ下さえ隠せば誰の前でも、肌を曝す事に一切の抵抗がなかった。元より躰に自信があるからこそ、見られたところで何とも思わないのだ。
やがて辰巳のシャツと下着を持ったフレデリックがリビングへと戻ってきた。
「辰巳。シャワーを浴びるかい? それとも一旦羽織るだけでもシャツを着るかい?」
「風呂」
「わかったよ。…一哉、少し待っててくれるかな?」
「はあ? あんたら風呂も一緒かよ」
呆れたように言う一哉を、一足先に脱衣所へと移動した辰巳がせせら笑う。
「なに言ってんだお前、俺ぁ別に本宅でも若い衆に背中くらい流させるっつぅんだよ。野郎同士て顔赤くしてる方がおかしいんじゃねぇのか?」
「ッ!?」
「まあ、そういう事だから一哉、適当に寛いでて」
そう言い残してフレデリックも浴室に入ってしまい、一哉はひとりリビングに取り残された。一人きりのリビングで、一哉ががっくりと項垂れた事は言うまでもない。
さほど間を置かず浴室へと入ってきたフレデリックを辰巳が振り返る。その顔には不機嫌の三文字が浮かんでいた。
「なんでアレがいる」
「匡成がカジノに行くから預かれって」
「つぅか置いて来いよ」
「僕に言われても困るよ辰巳」
泡立てたスポンジで辰巳の躰を洗いながら、フレデリックが困ったように肩を竦めてみせる。
「でもまあ…場慣れというか、雰囲気に呑まれないようになるにはこの船はうってつけかも知れないね。雪乃さんなんか完全に腰が引けていたし」
「はあ? 意味わかんねぇ」
「あのね、辰巳。キミはなんというか、どこでもマイペースだし、肝が据わっているから場の空気に呑まれるなんて事はないけれど、普通の人たちっていうのはそうじゃないんだよ? 昨日雪乃さんも言ってただろう? 住む世界が違うって」
ふぅん…と、そう小さく呟いてみたものの、そんなもんかといまいちピンとこない辰巳である。
フレデリックの言う通り、場所には空気というものがある。その場と極端にそぐわない者は、空気に呑まれ、ある種疎外感のようなものを感じるという事をフレデリックは子供の頃に学んでいた。端的に言えば、ヤクザの集団の中に一般人がいるようなものである。
ともあれフレデリックの言う事はもっともで、一哉とて部屋に入るまでは借りてきた猫のように大人しかった。
「まあ、社会勉強をさせてあげるのもいいんじゃないかい? それとも、ジムで扱いてあげる方が一哉も気楽でいいかな?」
「部屋に閉じ込めて勉強でも教えてやったら大人しくしてんじゃねぇのか?」
「ふふっ、それも楽しそうだね」
匡成の態度を見れば一哉本人も家業を継ぐことに異論はない以上、辰巳とフレデリックは一哉を跡取りとして教育しなければならない。だが、この二人にかかると跡取りの教育すらゲームのような感覚だった。まだ。
そもそも一哉がどの程度腹を据えて取り組む気があるのかが分からないのだ。本格的に叩き込むのは日本に帰ってからの話しである。それであれば、今日のところは遊んでやろうという辰巳とフレデリックのスタンスに問題などあろう筈はなかった。
いつもより多少早めに風呂をあがった辰巳とフレデリックがリビングへ戻ると、一哉は大人しくソファに座って待っていた。風呂上がりでシャツの前をはだけさせている二人の躰を一哉が交互に見る。
「あんたら二人ともおかしくねぇ? どうやったらそんな躰になれんだよ…」
「ああ? 質問する前に口の利き方を直せクソガキ。今度同じ事言ったらぶん殴るぞ」
じろりと睨む辰巳に一哉がたじろぐ。家業を継ぐというのなら、目上の人間に対する態度が先ずなっていない。
「一哉。家業を継ぐ気があんなら先ずは礼儀を覚えろ。今のお前は話にもならねぇ」
「……わかった…」
「あぁん?」
「ッ…わかりました」
「それでいい。舎弟みてぇに振舞えとは言わねぇが、目上の人間に対する口の利き方も出来ねぇガキは要らねぇんだよ」
大人しく返事をする一哉を見遣る辰巳の目は冷たかった。誰彼構わず粋がっているようでは揉め事が尽きない家業である。匡成に対する自分の態度はどうなんだという突っ込みを入れられるほど、一哉の神経は図太くないようだ。
ともあれしゅんとしてしまった一哉に、フレデリックが微笑む。
「そんなに固くならなくても大丈夫だよ、一哉。締めるべきところさえ弁えていれば、辰巳は怒らないから」
「フレッド……さん…」
一哉がとってつけたように”さん”と言ったのは、辰巳と目が合ったからに他ならない。そんな一哉の様子に、思わず苦笑を漏らす辰巳である。案外素直というか、可愛げもあるものだとそう思いながらも辰巳はフレデリックを見た。
「それで? 今日はどうすんだ」
「そうだねぇ…。一哉はなにかしたい事…って言っても、この船にはあまり騒げるような場所はないけれど…」
「つぅか一哉、お前英語くらいは話せんのか」
「英語…無理っす」
はぁー…と溜め息を吐く辰巳を一哉が上目遣いに見る。その目には、ありありとお前はどうなんだという疑問が浮かんでいるから面白いと思うのはフレデリックだ。一哉には、いったい辰巳がどういう人間に見えているのだろうか。とても興味があるフレデリックである。
ふと揶揄ってやろうとフレデリックは口を開いた。もちろん、その言葉は英語だ。
『辰巳。どうやら一哉はキミが英語を理解できるのかどうかを疑っているらしいよ?』
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