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「ああ? なんだ急に…」 『あからさまに疑っているようだから、少し揶揄ってあげようかと思ってね』  クスリと笑うフレデリックに、辰巳は小さく首を振ると一哉を見た。その目がフレデリックに釘付けになっている。やれやれと、そう思う。 『お前の意地の悪さは筋金入りだなフレッド』 「こういうのは、実際に目の前で見せてしまうのが一番早いだろう? ねえ一哉」  揶揄うような声音でフレデリックに問いかけられて、一哉が俯く。その口から、小さな呟きが零れ落ちた。 「俺…あんま頭良くねぇけど…おふくろ匡成さんと再婚出来るって喜んでるし…、俺も…その…一意さんみたいに家継げるように頑張るから…色々教えてください。お願いします」  辰巳とフレデリックが思うよりも素直な一哉は、そう言ってしっかりと二人に頭を下げてみせたのだった。  フレデリックが、朗らかな笑みを浮かべて辰巳を見る。辰巳は頭をガシガシと掻いた。 「急に素直になんじゃねぇよ阿呆。調子狂うだろうが。…とりあえず頭上げろ一哉」 「一哉。キミが辰巳の跡取りとしてやっていくというのなら、家業の行儀作法は辰巳に教えてもらえばいい。僕は学業と、どこに出ても恥ずかしくないマナーを教えてあげる。それと、キミが一番興味をもっているだろう体術もね」  にこりと微笑むフレデリックは、最近お兄ちゃん気質に目覚めたばかりである。他人から何かを奪う事しかしてこなかったフレデリックにとって、与えられるものがあるという事はとても愉しかった。  それに一哉は、フレデリックの愛する辰巳の跡取りなのである。どこに出ても恥ずかしくない男に育てるのは、立派な嫁の務めだと思っている。  一哉にマフィアである事を伝える気は、もちろんフレデリックにはない。日本に拠点を移すといっても、表向きは今の会社の日本支社への出向である。フレデリックのように多才であれば何の仕事でもやっていく事は出来るのだが、本業をこなすのに今の会社は都合が良かった。  仕事帰りに辰巳の本宅で一哉の面倒をみるという生活を、考えるだけで今から愉しみなフレデリックなのだ。  にこにこと機嫌よく笑っているフレデリックの笑顔に、辰巳は内心で一哉に両手を合わせた。この男に教育されるなど、辰巳は絶対に御免である。まして学業やマナーともなれば、フレデリックは確実にスパルタだ。  何を隠そう辰巳は前回『Queen of the Seas』に乗船して早々、フレデリックにテーブルマナーを叩き込まれたのである。  一応、辰巳の名誉のために記しておくならば、辰巳の食事のマナーはそう粗雑ではなかった。というより、フレデリックがテーブルマナーには煩いと言うべきか。  だがしかし、最低限のマナーしか知らない辰巳がグリルで食事をしたならば、確かにそれは周囲の目を引いたかもしれない。悪い意味で。慣れというのは確実に存在する。  というわけでフレデリックは理由をしっかりと述べたうえで辰巳に部屋でテーブルマナーを叩き込んだ。そう、文字通り”叩き込んだ”のである。  それは、辰巳が思い出すだけでげっそりする程に。呑み込みが悪い方でない辰巳でさえそう思うのだ。一哉が音を上げるのではないかと心配になる辰巳である。 「おいフレッド…お前、教えてやんのはいいが逃げ出されたら元も子もねぇって事を忘れんなよ?」 「嫌だなぁ辰巳。キミにしたような事はしないから安心して。あれはキミの顰め面が可愛くてつい愉しくなってしまっただけだから」  さらりと真実を明かすフレデリックの性格は最高に悪い。思い切り顔を顰める辰巳と、朗らかに笑うフレデリックを、一哉が交互に見ていた。その顔は不安に満ちている。 「あの…聞いていい…?」 「あん?」 「昨日さ、一意さんとフレッドさんツレだって言ってたじゃん…二人ともやっぱ結婚する気ないから俺に色々教えてくれんの?」  やはり気になるお年頃というものだろうか。蒸し返す一哉に、辰巳もフレデリックもだが今日は優しかった。 「そうだっつったらどうすんだお前」 「まあまあ辰巳、やっぱり気にはなるんじゃないかな」 「昨夜さ、二人帰った後で匡成さんに聞いたら、真面目に聞いたら教えてくれるって言われて…やっぱそうなのかなって…」  一哉の様子に辰巳とフレデリックは顔を見合わせた。正直な話を言ってしまえば、辰巳もフレデリックも身内の前で気など使うつもりはない。いずれ勝手にバレるだろうとそう思っていたのである。 「まあ、どうせ隠すつもりもねぇからそのうち分かんだろうが、夫婦みてぇなもんだってのは本当だ。どんな想像しようが好きにすりゃあいい」 「そのうえで、僕が昨日言った事も本当だよ。僕は辰巳になら命を預けられるし、同じように辰巳の命を僕は守る。キミがどう理解するかは僕たちにとって然程重要じゃない」 「分かった。教えてくれてありがとう」  どういたしまして。と、そう言ってフレデリックは微笑んだ。一哉を見ていると日本というのはやはり同性愛などまだまだ受け入れがたい風土なのかとそう思うフレデリックだ。まあ、日本でなくとも同性婚が認められている場所は限られる。  異常とまでは言わずとも、普通ではないのだと改めて実感する辰巳とフレデリックだ。実感するだけで是正する気がない二人ではあるが。 「匡成さんが、一意さんがネコなんじゃないかって言ってたけどそれもマジ?」 「あんのクソ親父。ロクな事吹き込まねぇな」 「残念だけど一哉、それ以上は言わない方がいい。辰巳に殴られたくなければね」 「え…それって答え言ってるようなもんじゃねぇの?」  にっこりと微笑むフレデリックは、このクソガキに本当の事を洗いざらい教えて脅してやろうかなどと半ば本気で考える。過ぎた好奇心は身を亡ぼすという事を教えてやるべきか。  隣に座る辰巳を横目でちらりと見遣れば、不意にその口から英語が流れ出た。 『おいフレッド、一回あのガキひん剥いてやれよ』 『それじゃあ逆にキミがネコだって証明するようなものじゃないか』 『じゃあ俺が剥けばいいのかよ?』 『それは駄目だ。さすがに僕が耐えられない』  英語を理解できない一哉の前で、堂々と内緒話を繰り広げる辰巳とフレデリックである。 『ただの脅しだろうが。耐えられねぇもクソもねぇだろ』 『駄目だよ。辰巳は興が乗ったらそのまま無理矢理犯しそうだ』 『まあ確かに可愛い顔してんもんな』  ちらり辰巳が横目で見遣れば、一哉本人は訳も分からず二人を見比べていた。その表情は、とてもではないが兄貴二人の話している内容が自分を犯すだの犯さないだのという恐ろしい話題であるとは全く気付いていない様子だ。 『冗談にしても、今の台詞は聞き逃せないよ辰巳』 『はぁん? お前だって昨日傷舐めてただろぅが。しかもその後何しやがった? 言ってみろああ?』 『あれはただの脅しだろう? 僕が本気になる訳がない』 『だったら俺も脅して何が悪ぃんだよ』  ピクリと、フレデリックの眉が上がる。いつの間にやら辰巳とフレデリックの話題がおかしなことになっていた。 『僕は言った筈だよ、浮気は許さない』 『俺も許すなんて言った覚えはねぇんだよ』 『なんだい? もしかしてキミはあんな事で嫉妬したのかな?』 『ああ? 俺ぁお前と同じ事を言っただけだろぅが』  辰巳とフレデリックが睨み合う。言葉の意味は分からないながらも、二人が険悪なムードになってしまった事だけはしっかりと理解している一哉だ。おろおろと辰巳とフレデリックを見比べてどうしたものかと思案する。  この時、一哉は声をかけるべきか迷っていた。というよりむしろ、声をかけて怒りの矛先が自分に飛んでくるのを恐れていた。  だがしかし、声などかけなくても災難は飛んでくるものである。 『僕にあの子を剥けって言ったのはキミじゃないか。いいだろうキミの言う通りあの子を剥いてあげるよ。自分が言ったんだからそこで指を咥えて眺めているといい』  ゆらりと立ち上がったフレデリックを、一哉が見上げる。辰巳はといえば、険しい顔つきのまま腕を組んでソファにふんぞり返った。 「勝手にしろ、クソが」  辰巳が日本語で吐き捨てると同時に、フレデリックが一哉の目の前に立つ。無表情に見下ろすフレデリックの前で、一哉はまさしく蛇に睨まれた蛙のようにソファの上で凍り付いた。 「な…何? つかなんであんたらが揉めんの…」 「それはキミが彼の地雷を踏んだからじゃないかな?」 「地雷って…まさかネコ…」 「過ぎた好奇心は身を亡ぼすという事を、今からキミに教えてあげる」  フレデリックの伸ばした腕の先で、一哉が思わず服の袷を掴んだのはただの本能だっただろうか。だがしかしフレデリックにとって一哉のそれは、何の抵抗にも、障害にもならなかった。  無造作に掴んだ一哉の腕を引き上げて半ば強引に立ち上がらせると、フレデリックはその肩に一哉の躰を担ぎ上げた。 「おわっ! ちょっ、フレッドさっ…何…ッ」 「暴れてもいいけれど、僕は抵抗されると余計に苛めたくなる性分だって事を先に教えておいてあげるよ一哉」 「ッ…!!」  ぴたりと動きを止める一哉の脚を、フレデリックは褒めるように二度ほど軽く叩いた。そのままリビングと寝室を隔てる壁の横を通過する。軽々と放り投げられた一哉の躰を大きな寝台が受け止めた。  衝撃に幾度か目を瞬かせながらも自身の置かれた状況に、一哉は寝台の上をずり上がりながら慌てたような声を上げる。 「ちょっと待ってよフレッドさん! 訳わかんねぇし!! てか地雷踏んだなら謝るからッ、もう二度と言わない!」  いくら寝台が大きくとも、限界はすぐに訪れた。ベッドヘッドに背中が当たって横に逃げようとする一哉の脚を、フレデリックがあっさりと掴んで引き寄せる。シーツを掴むという一哉の些細な抵抗は無意味だった。  寝台に片膝を乗せたフレデリックの手が、あっという間に一哉を腕の中へと囲ってしまう。押し返そうとする一哉の両腕をあっさりと片手で頭上に縫い付けると、フレデリックは微笑んだ。 「苛められるのが好きなのかな?」 「ッ…マジで…待って…」  確実に体格差で勝てない事が分かっているだけに、一哉は今にも泣きそうな顔でフレデリックを見上げた。 「一意さん怒ってたじゃん…俺ちゃんと謝るし二度と言わないから…っ、喧嘩になるような事しないでよ…」 「キミが心配するべきは辰巳じゃないだろう?」 「っ…俺のせいだって分かってるけど! ちゃんと後で怒られるから…一意さんとフレッドさんが揉めないで」  一哉の台詞に、思わずフレデリックは固まった。この子は、何を言っているのだろうかと考える。身の心配をすべきだと思うのに、何故この子は自分と辰巳の喧嘩の心配などをしているのか理解できない。  フレデリックが怪訝な面持ちで一哉を見下ろしていれば、低い声が耳に流れ込んだ。 「おいフレッド、ちっとツラ貸せや」  フレデリックが振り返れば、咥え煙草でリビングと寝室を隔てる壁に肩で寄り掛かり、腕を組んだ辰巳の姿がある。  ゆっくりと寝台から下りるフレデリックを見遣った後で、辰巳は一哉に視線を向けた。 「一哉、お前ちょっとそこで昼寝でもしてろ」 「……はい…」  こくこくと素直に頷く一哉を残し、辰巳は先にリビングに戻ったフレデリックの腕を引いてバルコニーへ出た。閉めたばかりの窓にその躰を押し付ける。フレデリックの大きな背中が当たって、ガラス窓がガタンッと大きな音を立てた。  僅かに低い位置にある辰巳の黒い瞳がフレデリックを映し込む。 「俺が悪かった。冗談でも俺はお前が他の奴に手ぇ出すのは見たくねぇ」 「辰巳…」 「誰にどう思われようとどうでもいい。だからもうやめようぜ。ガキに諭されるなんて情けねぇが、俺はお前と喧嘩なんぞしたくねぇよ」  フレデリックの頬を、辰巳の武骨な指が辿る。黒い瞳に愉しそうな色を浮かべながら、辰巳はフレデリックに軽く口付けた。すぐに離れてしまった唇が名残惜しくて、フレデリックは辰巳の躰を抱き寄せる。 「っふ…フレッド……ガキが覗いてんぞ…」 「知ってるよ。でも、僕はもう少し辰巳とこうしていたい」  クスリと笑いを漏らして、啄むような口付けの合間にフレデリックが囁く。あれだけ好奇心の強い一哉だ、ガラス窓の立てた大きな音に、覗きに来ない訳がないとそう思うフレデリックである。だが、見たいのならば好きにすればいい。どうせ隠すつもりもないのだ。  触れ合わせるだけの口付けは次第に深くなっていった。口腔で互いの舌を絡め、唾液を交換する。随分と長い仲直りのキスは、小さな水音をたてて解けた。  フレデリックがうっとりと微笑む。 「辰巳…もっと僕に嫉妬して?」 「阿呆。嫉妬されるような事すんじゃねぇよ」 「キミに求められるのは…心地が良い」 「二度目はねぇよ。今度やったら許さねぇぞ」  独占欲を露わにする辰巳をフレデリックが見るのは初めての事だった。辰巳は、フレデリックのする事にあまり口を挟まない。何をしても辰巳は呆れたような表情で見守っているだけで、こうして嫉妬するような言葉を吐いた事など一度もなかったのである。  少しずつ変わりつつある辰巳の態度は、フレデリックを喜ばせた。

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