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第61話:獅子と牝山羊4

(今、人殺しって言った?)  言葉の内容に見合わない、とても軽やかな声だった。だからユァンは聞き間違いではないかと疑ってしまう。 「その顔は信じてないね? 困ったな」 「でも……」  素直なユァンでも、何をどう信じていいのか分からなかった。 「まあいいよ。いずれ分かることだ」  青年はちらりと笑みを見せ、また歩きだしてしまう。春を謳歌(おうか)しているはずの北の大地で、白いローブの背中を取り巻く空気が凍てついて見えた。 (バルトが人殺し? そんなこと、どういう意味で言ってるの?)  バルトロメオは破天荒だが独自の正義感を持っている。そんな彼がさすがに人を殺めたりはしないだろう。頭では思うのに、背筋に寒いものがまとわりつく。 (バルト……、僕は信じていいんだよね?)  ユキに温かな鼻先を押しつけられるまで、ユァンはしばらくその場に凍りついていた。  *  山羊の乳は朝夕バケツに(しぼ)り、修道院の調理場へ持っていく。これは食堂の料理に使われるほか、チーズやバターに加工し、観光客用の土産物として教会の売店でも取り扱われる。 「ユキ、そろそろお乳が欲しいんだけど」  乳搾りを初めて日が浅いユキは、まだ慣れていないからか大人しく乳を搾らせてくれない。搾ろうとしてもじっとしてはいられずに逃げていってしまうのだ。 「おいで。ユキの好きなびわの葉だよ」  ユァンは彼女をなだめすかし、餌を食べている隙に脚の間にバケツを置いた。 「よし、そのままそのまま……」  隙を見てさっと乳房を拭き、乳を搾り始める。山羊もこんなことをされるのは大変だが、ユァンにとっては神経を使う作業だ。慎重さと手際のよさが要求される。  一秒を争うようにしてバケツに乳を溜めていく。と、そんな時、山羊小屋にバルトロメオが戻ってきた。 「ユァン、お疲れ」 「えっ? あっ!」  もう少し搾れるかと思ったのに、ユキが尻尾を振りながらバルトロメオの方へ行ってしまう。 「バルト~……」 「ああ、邪魔したみたいだな」  そう言いながらもバルトロメオは、わざわざしゃがんでユキの体を撫で回す。集中力が途切れてしまって、今日はもうユキの乳搾りは無理そうだ。  山羊小屋の窓から見える景色は、すでに茜色に染まっていた。 「おっと、引っ張るなって。分かった分かった、お前も撫でる」  他の山羊たちも寄っていって、バルトロメオは敷き藁の上でもみくちゃになっている。 「なんで山羊はバルトが好きなんだろ……」  世話のほとんどは自分がしているのに、ユァンとしては複雑だ。 「きっと大人の男の魅力ってやつだな!」  バルトロメオは悪びれもせずそんなことを言っている。 「……なんだ、嫉妬か? ユァンも来いよ」 「嫉妬って……えっ、山羊の方に?」  呆れているうちに腕を引き寄せられ、あぐらをかく彼のひざの上に座らされた。 「もう、バルト……」  一日働いた汗の匂いが香る。  バルトロメオはユァンの髪をわしわしと撫で、前髪にキスを落とした。山羊にはしないその触れ合いにドキリとする。  見つめていると、今度は唇に。 「……っ」 「ユァン、これ好きだよな?」  優しいキスが何度もくり返され、濡れた唇の感触にユァンは恍惚(こうこつ)となってしまう。  そのうち半開きになった唇の隙間を、バルトロメオの舌が押し開いた。

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