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第68話:獅子と牝山羊11

 気がつくとユァンは、山羊小屋の飼葉(かいば)の上に横になっていた。  窓から見える空の色は、明け方の藍色だ。司教の執務室から、どうやってここに戻ってきたのか……。分からない。それほどの緊張に、あの時はさらされていた。  そばに寝ている子山羊を起こさないよう気を遣い、ゆっくりと体を起こす。  空腹を感じ、小屋の外の水道から手のひらに水をすくって飲んだ。  昨日はバルトロメオを探すために夕食を(あきら)めた。それでも結局、彼には会えず終いで。  胃も心も満たされない現実に、寂しさと空しさが込み上げる。  以前なら神さまと山羊たちが心を満たしてくれたのに……。好きな人といる時間の輝きを知ってしまったら、もう、あの頃には戻れない。  *  それから朝の礼拝と朝食を終え、ユァンが訪れたのは先日、ペティエ神父主催のパーティが開かれていた宿泊棟だった。  バルトロメオが宿舎にいる様子はない。だったらここだと踏んで来てみると、普段使われていない宿泊棟に人が出入りしている。  嫌な記憶がよみがえるが、今はそのことに囚われてはいられなかった。  洗濯物を持ち出す清掃係の修道士を物陰から見送り、ドキドキしながら裏口のドアを押してみる。幸いそこに鍵はかかっていなかった。  足を踏み出し、軋む床板にまたドキリとする。  風格ある中世ロマネスク様式の本館とは違い、この建物は過ごしやすさを重視した木造建築になっている。ユァンは物音を立てぬよう細心の注意を払いながら、人の気配を求めて明るい庭沿いの廊下を進んだ。  一階に人のいる様子はなく、階段を上って二階に上がる。あの時、バルトロメオが飛び降りてきたのはこの辺りの窓だろうか。  いつの時代のものなのか、美しい色ガラスがはめ込まれた窓の前を通り過ぎ、先へ行こうとした時。  廊下を挟んで向かいにある部屋から物音が聞こえた気がした。二階の部屋はどこも、来客用のベッドが置かれた個室になっていたはずだ。  ユァンは息を詰め、ドアに耳をつける。  誰かが書きものでもしているんだろうか。椅子を引く音と、紙の擦れるような音が響いた。  しばらくためらったあと、ユァンは意を決してドアノブをひねる。  しかしドアを開いてすぐに見えた奥のデスクには、人影がなかった。 「バルト……?」  小声で呼びかけながらすり足で進み、部屋の中を見回す。 「残念だったね、ここにいるのは僕だけだ」  声に振り返る。  ドアのすぐ脇の壁にヒエロニムスが寄りかかっていた。

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