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第87話:罪と愛5
「司教さま……」
「ユァン、起きていたのか。気分は?」
ベッドに腰かけていたユァンのところへ、司教はまっすぐにやってくる。
なんのことかと首を傾げると、彼の顔が近くまで迫ってきた。
「お前は告解室の前で倒れたのだ」
「え……倒れた?」
「そうだ、覚えていないのか……」
司教は気づかわしげに見つめてくる。
「まだ顔色が悪いな。寝ていなさい」
早口に言われ、ユァンは戸惑いながら枕元に視線を落とした。すると司教にやんわりと肩を押され、体を横にさせられる。
「でも、山羊を見に行かなければ……」
「それは私から他の者に頼もう」
「しかしそれでは――」
司教はみなまで言わせずに、ユァンの胸元まで毛布を引き上げた。
「お前は普段から一人で背負い込みすぎだ」
「僕には他に何もできることがないから……」
言いながらユァンは内心驚いていた。洗濯から料理、建物の修繕まで……衣食住に関わる仕事をする者の他にも、教会全体の運営や外部交渉に携わるスタッフなど、修道院内では大勢の修道士たちが働いている。そんな中でトップにいるこの人が、末端にいるユァンの仕事ぶりまで把握しているものだろうか。
ベッドの縁に腰かけるシプリアーノ司教の顔を、ユァンは枕の上から改めて仰ぎ見た。
この国の人間には珍しい、彫りの深い顔立ち。愁いをたたえたような瞳。首元まである白髪交じりの髪は彼の年齢と苦労を物語ってはいるが、立場に相応しい艶があった。
遠くからだと威厳を感じさせる大柄な体は、この距離で見ると適度な厚みを持ってみえる。
出会った頃、ユァンはこの人を、親しみと憧れをもって見つめた。けれど教会内部のことを知るにつれ、ずいぶん雲の上の人だということを理解した。
そして彼の方もいつからか、ユァンから距離を取るようになっていった。未だにその理由は分からない。
「こうしていると、昔と何も変わらないな」
シプリアーノ司教の右手が、指先だけでユァンの髪に触れた。
「仕事を終えて戻ると、お前がここで寝息を立てていて。私はまだ修道院長になったばかりで……。養護院の部屋に空きが出てからは、お前をそちらへやってしまったが」
そんな時期が確かにあったと思う。ユァンと彼の蜜月の数カ月が。そのあと突き放されたと思ったのは、単に物理的な距離ができたからだろうか。
思い出そうとすると、また気分が悪くなる。横になっているのに目眩がして、視界が暗くなっていくように感じた。探り探り髪に触れてくる、司教の湿った手が不快だった。
ユァンはその手から逃れようと体をひねる。
「ユァン?」
「もう行きます」
「寝ていなさい。山羊のことなら――……」
「いえ、僕は……ここにいたくない」
ベッドの反対側に下りようとして、持ち上げた腕が司教の手に当たってしまった。パシッと乾いた音が響く。司教が息を呑んだ。
「……えっ?」
彼の視線を追い、ユァンはハッとなる。ユァンの爪が当たってしまったんだろう、司教の右手小指の外側に、血がにじんでいた。
「ごめんなさ……っ」
彼が小指に唇を触れさせ、唇までが血に染まる。
「て、手当てを!」
「手当てが必要なのはお前の方だろう」
血に濡れた右手に手首をつかまれ、ユァンはベッドに押さえ込まれた。
「顔が青い。唇が震えている」
「それは司教さまが……」
真上から押さえつけてくる、大柄なこの男が怖い。目元には暗い影が射していて、赤い唇がわずかに開いていて……。
聖職者であるはずの彼が、どうしてか悪魔に見えた。
――いやだ、助けて……ぶたないで。
ユァンの頭の中で誰かが言った。
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