89 / 116

第89話:罪と愛7

「こっち来い、ユァン」  短い命令だけれども、その声には恋人を想う優しさがある。魔法が解けたように、ユァンは司教の下から這い出した。  司教も立ち上がり、窓からの珍客に向かって睨みを利かす。 「……困りますな。ノックもなしに、勝手に私室に上がられては」 「そんなことより。かわいいユァンをベッドで泣かせていいのは俺だけだ」  ユァンが腰に跳びつくと、バルトロメオの指がユァンの濡れた目元を拭った。 「大丈夫か?」 「うん、少し……感傷的になっただけ」  精いっぱい微笑んでみせると、彼も口の端を持ち上げ、とろけるような笑みを見せてくれる。  そこで司教の咳払いが聞こえた。 「ブラザー・バルトロメオ、貴殿の勝手な振る舞いは、ヒエロニムスを通してすべて法王庁に報告させてもらう」 「ヒエロニムスか。師として期待したくなるのは分かるが、期待するだけ無駄だ。あいつは外面はいいが脳みそはかわいくて、見た目の半分も仕事できないぞ」  バルトロメオが意地悪く笑った。彼のあまりなもの言いに、シプリアーノ司教は無言で睨んでいる。口汚く言い合っては品位を落とすとでも言いたげだ。  二人の間でハラハラするユァンを、唐突にバルトロメオが抱き上げた。 「もう行こう、ユァン。また雨が降りだすと、帰り道が遠回りになる」 「どういう意味?」 「こういう意味だ!」  ユァンを肩に担ぎ上げ、バルトロメオは窓の外へと跳びだした。 「うわあっ!」  視界が反転し、ユァンは見たことのない景色に声をあげる。聖クリスピアヌスの象徴である尖塔が、逆さまになって星空に突き刺さっていた。  そのまま視線をずらすと、バルトロメオの足が窓のひさしを踏んでいる。このまま屋根伝いに、宿舎の方まで行くつもりなのか。  雨上がりの星空の下、彼は慣れた足取りで濡れた斜面を進んでいく。ユァンはその体にしがみつきながら、新鮮な夜の空気を吸い込んだ。  バルトロメオが足でも滑らせれば、二人とも一巻の終わりだ。それでも、司教と二人でいた時よりずっと生きた心地がした。 「バルト……」  不安定な体勢のまま、ユァンは自分を担ぎ上げている彼の顔を見ようとする。頬に当たる硬い髪が少しチクチクしたけれど、それでもシャープな顎のラインに胸がときめいた。 「ぼんやりしてたら落ちるぞ。よーくつかまっておけ」  ユァンの視線に気づいたのか、バルトロメオが少し照れくさそうに笑った。 「うん」  腕を彼の脇の下に差し入れる。 「じゃあ行くぞ!」  バルトロメオが雨樋をつかみ、するりと三階の屋根に跳び移った。丈の長い修道服で、どうしてここまで身軽に動けるのか。ユァンとは筋肉量だけでなく、もともとの運動神経から違うらしい。  それはともかく、ここからはひさしの上ではなく、三階建て部分の三階の屋根だ。ここなら足場に困らない。 「よっと!」  腰をつかまれ下ろしてもらえるのかと思ったが、ユァンはバルトロメオの腕の中で、横抱きに抱き直されただけだった。この体勢だと彼の顎の先がすぐ近くにあってドキドキする。なめし革のように艶のある肌が、匂い立つような男の色香を放っていた。

ともだちにシェアしよう!