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第95話:罪と愛13
(あっ……)
目の前にお椀を差し出され、ユァンは思考の回廊から現実に引き戻される。
お椀を差し出しているのは、汚れたコートを着たひげ面の男だった。年は還暦を過ぎた頃だろうか。嗅ぎ慣れないお酒の匂いが漂う。
「…………」
無言の催促。
「すみません……」
ユァンは怯えながらスープをよそった。
「あの……?」
男はスープの注がれた椀を引っ込めたものの、鍋の向こう側からじっとユァンを見ている。
(もう煮えてると思うけど……もしかして、野菜の切り方が悪かった? それとも何か他に食べ物が欲しい? あっ、僕じゃない修道士がよかったとか……)
ユァンにはその視線の意味が分からない。他の修道士がいないか、ドギマギしながら辺りに目を向けると……。
「あんた!」
男に大きめの声で呼ばれた。
「は、はい、なんでしょう?」
「見ない顔だな!」
「え? すみません……」
(やっぱり僕じゃない誰かと話したかったのか……)
ユァンはただバルトロメオといたくて来たものの、歓迎されていないらしい場の空気に気持ちがしぼむ。
(……そうだよね。ここは奉仕の場なのに、人に尽くそうって気持ちじゃなく、下心で来た僕がいけなかった……)
貧しき賢者は、人の心を見抜く目を持っているらしい。ユァンは泣きたい気持ちで、首からかけているロザリオを胸に押さえつけた。ところが……。
「あそこに繋いでる山羊はあんたのか!」
男の大きな声はそう続ける。
「そう、ですけど……お邪魔でしたか?」
ユァンが鍋の番をする間、連れてきた数頭の山羊たちは、テントの柱に繋いで適当に遊ばせている。暇そうに体を横たえているものもいれば、短い雑草を鼻先で物色しているものもいた。
男は山羊たちを興味深そうに眺める。
「体が引き締まっていて毛並みもいい。爪の手入れもよく行き届いている」
(それは……褒めてくれてる?)
まさか山羊を褒められるとは思わなくて、ユァンとしては半信半疑だ。
「俺も昔は何頭も山羊を飼っていたんだが、あんないい山羊はいなかったな! 特に手前の白いのなんか、顔立ちまでいい」
男が言っているのはユキのことだ。愛情込めて育てた山羊が認められて、ユァンは何も言えなくなってしまう。
それから男は昔飼っていた他の家畜や、借金の形に取られた畑の話をしていたが、ユァンの頭にはいっこうに話が入ってこなかった。山羊を褒められたこと、好意的に話しかけられているらしいことに驚いてしまって……。
「本当にいい山羊だから、大事にしてやりな!」
彼は最後に力強くそう伝え、椀を片手に去っていった。ユァンはその後ろ姿を黙って見送る。あれだけたくさん話をされたのに、自分からはほとんど反応を返すことができなかった。
一人になって思い返し、嬉しいのか不甲斐ないのか、よく分からない涙が出てきてしまう。
「ユァン、そろそろスープは……」
鍋を覗きにきたバルトロメオが、そんなユァンを二度見した。
「どうしたっ!? なんで泣いてる!」
「あっ、これは……山羊が……」
「山羊がどうした!?」
そばにいる山羊の一頭があくびする。
「僕の山羊が……褒められた……」
「へ……?」
「さっき来たおじさんが、ユキたちのこといい山羊だって」
照れくさくなって下を向きながら伝えると、バルトロメオがぐりぐりと髪を撫でてきた。
「なんだよ~、それで泣いてたのか」
「だって、褒められるのなんて初めてだったから」
「山羊を?」
「うん、いや……他のことでも」
沈黙は金なりという価値観の修道院で、修道士たちはお互いに褒め合ったりしない。当然ユァンも褒められ慣れていなかった。けれどバルトロメオは不思議そうにする。
「初めてってことはないだろ。俺は褒めてるつもりだし、他の修道士たちだってきっとユァンのことを認めてる」
「そんなことは……」
ユァンが頑なに信じないでいると、彼は念押しするように言ってきた。
「ユァンは真面目で愛情深い、いい山羊使いだ。アンタの山羊たちはいつも満ち足りた顔をしている」
「もう……バルトまで僕を泣かさないで……!」
ユァンは頭の上にある、バルトロメオの手を押しのける。そうしてじゃれ合っていると、ふと横からの視線を感じた。
「なんか、ものすごい美人が来てるんだけど……」
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