次の春――。 　山羊小屋の外から、バタバタと激しい足音が聞こえてくる。 「ユァン、おい！　無事か！？」 「全然無事じゃない！」 　ユァンは外からの問いかけに、苛立ちを隠さない声を投げ返した。 　目の前ではユキが苦しげに呻(うめ)き、子山羊を産み落とそうとしている。だが子山羊は逆子らしい。尻と小さな尻尾らしきものが子宮口からはみ出していて、ユァンはそれを素手で必死に押し戻そうとしていた。 　正常な胎位(たいい)で産まれてこなければ、脚や首が産道に引っかかったまま動けなくなり、命を落とす危険がある。子山羊が自力で体勢を立て直せないなら、本格的にお産を介助しなければならなかった。 「ユァン！」 　名前を呼びながら、バルトロメオが山羊小屋に飛び込んできた。 「手袋は？」 「あった！」 　ユァンが伸ばした左手に、彼が薄手のゴム手袋を握らせる。 「やっぱり逆子だったのか！」 「なかなか産まれてこないと思ったら案の定！」 　すでに羊水で濡れた手に、ユァンは受け取ったゴム手袋を素早くはめた。 「もう時間的に厳しそう。これから前脚を探して引っ張り出す！」 「分かった！」 　バルトロメオが回り込み、ユキの頭を押さえる。 「ユキ、もう少しだから頑張って！」 　ユァンは思い切り息を吸い、子山羊の尻の脇からユキの子宮に手を入れた。 　ユァンだってこんなことをするのは恐ろしい。お産の介助をする機会は年に一度もないのだ。慣れているとは言いがたい。けれどもためらう猶予はなかった。 「どこなの、前脚は！」 　子山羊の体をたどっていき、手探りでそれを探した。ユァンの顎を汗が伝う。 「……くっ、どこ、分からない……」 「落ち着け、ユァン。大丈夫だ」 　目を上げるとバルトロメオが、ユキの頭の向こうから真剣な目でこちらを見つめていた。 （そうだよね、僕が落ち着かなきゃ……） 　両手が塞がったまま、ユァンは肩で汗を拭い、もう一度子山羊に集中する。目を閉じ、また体の線をたどっていった。 「あった、多分これが前脚！　大丈夫、ちゃんと二本見つかった！」 　二本の前脚の間にある頭の位置を確認し、脚を揃えて一気に手前へ引きずり出す。ユキが大きく鳴き声をあげ、そして子山羊が飼葉の上に産み落とされた。 「はぁ、はぁ……」 　ユァンは息を乱したまま、子山羊の様子を確認する。小さな体を震わせ、ちゃんと息をしていた。 「生きてる、よかった……」 　お産を終えたばかりのユキが首を巡らし、子山羊の体を舐め始める。 　ユァンはひざから崩れ落ちるようにして、汚れた飼葉の上に座り込んだ。 「よくやった！　二人とも！」 　バルトロメオが来てユァンを強く抱きしめた。 　ここは南の海に浮かぶ、小さな島の教会だ。バルトロメオはこの島の子供たちに、読み書き計算と、神さまのことを教えている。 　とはいえ独特の宗教観を持つ彼のことだ。神さまとはつまり正義のことだと、そう教えているのをユァンは見かけた。 　彼の上司や仲間たちは彼が法王庁を去ることを惜しんだが、バルトロメオは新しいことがしたいといってここへの赴任を決めていた。けれど本当はユァンのための牧草地を求めてのことだと、ユァン自身は知っている。 　そしてユァンは相変わらず山羊と共に暮らしている。聖クリスピアヌスからこの島へ来た山羊たちは、ようやくこちらの環境に慣れたところだ。 　そして今、この島で初めての子山羊が生まれた。 　見るとその子山羊は男の子らしい。骨太な体つきに、焦げ茶色の毛並みが独特できれいだ。 　生まれたての子ヤギの頭の上に、無限の未来が輝いてみえる。 　ユァンはその子に〝小さなバルト〟という名前を付けた。 fin.