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   ◇   ◆   ◇  ある日の午後。穏やかな日差しが降り注ぎ、爽やかな風が匡成の頬を撫でていく。  白い手摺にはよく分からないが美しい細工が施され、見渡す庭は馬鹿みたいに広い。長年風雨に曝されようと、一切の手抜きなく手入れされて美しさを保ったままのガーデンテーブルとガーデンチェア。目の前には精緻な模様の描かれた華奢なティーセット。そして駄目押しの如くそそり立つ三段のスタンドにはスコーンや洋菓子が乗っていた。  そう、ここは雪人の家である。  引退騒ぎも無事収まり、つい一週間ほど前に匡成はこの家に越してきた。…というより、マスコミが喰い付きそうな様々な話題を後発で放り投げ、強制的に騒ぎを掻き消すという強硬手段に出たのはもちろん雪人だ。  自身の持つ権力を最大限に生かすことにかけては、間違いなく雪人の右に出る者は居ないと、そう思う匡成である。ただし、本人の欲望に対してのみそれは発揮される…のだが。  何度かこの家を訪れた事があるものの、いつもは玄関ホールを入ってすぐ右手にある来客用の応接室で雪人と会うだけだった。つまり、匡成が屋敷の中に足を踏み入れたのは一週間前が初めての事だ。  まあ、敷地を囲う塀の長さは言わずもがな。門扉から玄関まで、徒歩では厳しいのは当たり前。ようやく見えた屋敷はどこの城かと思う程度のデカさを誇り、当然の如く優雅に水を吹き上げる噴水を囲むロータリーに、確実に素人では世話をしきれない植物の数々。  それくらいは匡成とて分かっていた。分かっていたのだが…。  マンションを引き払うつもりがない以上、この屋敷に住むにあたっての一切を新たに買い揃えると言った匡成に、胸を張って心配は要らないと雪人がそう言った時点で気付くべきだった。つい今しがたも、雪人の呼んだテーラーを一人追い返したところである。  目の前で優雅に紅茶を啜る雪人を、匡成はギロリと睨んだ。 「オイコラ雪人、お前は毎日毎日どれだけ服を作るつもりでいやがんだ、ああ? いい加減にしろよ一週間だぞ」 「何を言うんだ匡成。初日に数着作っただけで、あとはことごとく追い返してるじゃないか。何がそんなに気に入らないんだ? 気に入ってるブランドがあるなら教えてくれてもいいだろう」 「そうじゃねぇって言ってんだろうが…」 「最初に言ったが俺はお前に吊るしの安い服など着せるつもりはないぞ」 「もういい分かった。てめぇこれ以上同じ事しやがったら二度とここへは帰ってこねぇからな」 「ぅぐ…っ」  最初からそう言えばよかったと、匡成は清々したとばかりに踏ん反り返る。煙草を抜き出して咥えれば、そばに控えていた使用人が慣れない手つきで火を差し出した。 「あー…無理しなくて構わねぇよ。火くらい自分で点けられる」  一応、慣れないながらも仕事を全うするつもりでいるらしい使用人の手から匡成は火を受け取った。こんなことになっているのも、すべては目の前で悔しそうに唇を噛み締めている馬鹿のせいである。  はぁっ…と勢いよく溜息を吐いた匡成は、煙草を指に挟んだままカップを持ち上げた。 「お前なぁ雪人。言っとくが俺はお前の女じゃねぇんだよ。服だのなんだのいちいち口を出すんじゃねぇ」 「っ……匡成に似合いそうだと俺が思ったものを着て欲しいと言ってるだけじゃないか…」  拗ねたように言う雪人に思わず流されそうになりながらも、ふるりと匡成は頭を振った。随分可愛らしいお願いのように聞こえるが、雪人の言う”匡成に似合いそう”という服はすべてがフルオーダーで、一着でその辺のサラリーマンの月給を軽く超えるのだ。いやむしろファミリーカーが買える。  匡成とてそう金勘定に厳しい訳ではないのだが、雪人の感覚は生まれた家のおかげか一般のそれとはかなりかけ離れていて、はいそうですかと染まれるものではなかった。 「てめぇの感覚に俺を巻き込むんじゃねぇよ」 「だってお前は俺が送ると言っても断るし…、何も出来る事がない」 「当たり前だろう。たかがゴルフ行くのにヘリで行く馬鹿がどこにいんだよ」 「何を言うんだ匡成。車だと数時間もかかるんだぞ? それが三十分になればもう少しお前と一緒に居られたじゃないか!」  何も出来る事がないと、そう言ってしょげかえっていたのも束の間、雪人の剣幕は凄まじい。自分がどれだけ匡成と一緒に居たいと思っているのだと、衒いもなく不満を述べる雪人である。 「阿呆かお前。仕事以外一緒に居んだからいいだろうが」  取り合うつもりもない匡成は、スコーンを一つ摘まんで口の中へ放り込んだ。 「だいたいな、俺はお前に何かして欲しいなんざ、ひとつも望んじゃいねぇんだよ。大人しく家で待ってろ」 「少しくらい甘やかさせてくれてもいいだろう…」 「お前の場合は度が過ぎてんだよ阿呆」 「わかった。そんなに俺に甘やかされるのが嫌なら匡成専用のヘリを用意しよう…」 「く…っ」  匡成は思わず歯を喰い締める。どうしてこう、すっ飛んだ方向に思考が向かうのか全く理解が出来ない。 「そうじゃねぇって言ってんだこの馬鹿が…。いい加減にしねぇと張り倒すぞてめぇ」 「匡成は…俺に世話を焼かれるのが嫌なんだろう…? だったら匡成が自由に使えるものを用意するしかないじゃないか…」  俯いて寂しそうに言う雪人に、匡成は頭を抱えたくなる。ズレにズレまくった雪人の思考回路は、どうにも度し難い。  匡成は小さな溜息を吐いて立ち上がると、雪人の腕を掴んで部屋へと引っ張り込んだ。顎をしゃくって使用人をあっさりと追い出してしまうと、突き飛ばすように雪人をソファに座らせて匡成は隣に腰を下ろした。 「いいか雪人、俺はお前に世話を焼かれたくなくて言ってんじゃねぇんだよ。世話を焼かれる必要がねぇって言ってんだ。お前が何かを用意しなくても、今まで通りで俺は構わねぇんだ分かるな?」 「俺が用意したくても駄目なのか…?」 「駄目だ」 「っ……」  きっぱりと言い切る匡成に黙り込むものの、雪人は何かを言いたげで。雪人のその言いたい何かは、匡成には予想がつく。甘やかしたいといいながら、雪人は甘えたいのだ。匡成と一緒に居られる時間を無駄にしたくないだけである。  ただ、その方法が世間一般とはズレまくっているのだが。  確かに、移動に無駄な時間を費やすくらいなら、もっと早い移動手段を使えば時間が浮くというのは道理だ。ただ、そんな事をしてまで時間を空けなければならない事情が匡成にはない。 「お前はただ一緒に居られる時間を増やしてぇのかもしんねぇけどな、これからどれだけ時間があると思ってる。ちゃんと帰ってきてやるから大人しく待ってろ。な?」  ぽんぽんと頭を優しく叩けば、雪人は小さく頷いた。まるで子供をあやしているような気分に駆られる匡成だが、まあこれも致し方がないかと苦笑する。雪人の生い立ちや生活を考えれば、ひとつひとつこうして距離を縮めていかない限り、関係を続けてはいけないのだから。それでもいいと思ったから匡成は雪人と付き合っている。  一方で、寂しそうに俯く雪人は引退するまで自身が言うようにして時間を空け、匡成に会う時間を作ってきた。いくら三年付き合ってきたと言っても会える時間はごく僅かで、今が一番浮かれている時期なのだ。 「お前の気持ちは嬉しいがな、今からそんなに慌てる必要はねぇだろ」 「うん…」  それでもやっぱり寂しそうに俯く雪人に、匡成は僅かに変えた口調で問いかけた。 「お前、嫁さんと暮らしたの何年だ?」  唐突な質問の意図が掴めず、僅かに眉根を寄せながらも雪人は『二年』とそう答えた。  親同士が決めた雪人の許嫁の名前は紗季(さき)。雪人よりも十歳年下の紗季とは、紗季が十八になる年に入籍した。とても線が細く、儚げな印象そのままに躰が丈夫ではなかった紗季は、それから一年後、甲斐を身ごもり、出産と引き換えにその命を落としたのだ。 「どうしてそんな事を聞く?」 「ん? ああ、別に…」  歯切れ悪く応えた後で、匡成はどこか諦めにも似た笑みを浮かべてこう言った。 「それじゃあまぁ、仕方ねぇのかもな」  同じ年に嫁を亡くしている匡成ではあるが、雪人とは違い、亡くなった前妻の茜(あかね)とはそれ以前十三年生活を共にしている。同じ夫婦といっても、匡成と雪人の間にはそこにもまた感覚の違いがあるのだろう。  どこの夫婦も、最初の二、三年というのは夫婦というよりまだ恋人のような気分でいられる時期ではある。 「なあ雪人。これから先やってくのに、今のお前みてぇにはしゃいでたら息切れしちまうよ」 「匡成…」 「お前が長い事、無理したり我慢してきたのは分かんだけどよ、先は長ぇだろ。もちっとゆっくりしててもいいんじゃねぇか?」  匡成の言葉に、雪人は珍しく返事をしなかった。黙って俯いたままの雪人を抱き寄せた匡成はその日、午後の遅い時間に本宅から若い衆を呼び出すと、あっさりと雪人との養子縁組を成立させてしまったのである。  その日の夜。夕食を終えて早々に部屋へと引き上げた雪人は、当然匡成の腕の中に居た。というよりも、寝台の上で煙草を吹かす匡成の腰に腕を回してしがみ付いている。  その後頭部を見遣って、匡成は小さく息を吐いた。 「本当に良かったのか?」 「何がだ」 「名前だよ阿呆」 「別に俺自身が別の人間になる訳でもなし、ただ氏が変わるだけの事だろう。通称は須藤のままで問題はないしな」  それは、雪人の引退を待って籍を入れるかと匡成が言った後から随分と二人で話し合ってきたし、雪人個人も弁護士に相談し、その上で決めた事だった。  養子縁組では、原則として養子は養親の氏を名乗る事になる。つまり雪人は”辰巳雪人”になる訳だ。その影響を、匡成はずっと懸念している。  弁護士曰く、やむを得ない事情があれば氏の変更が認められるというし、雪人の場合、立場が立場なだけに認められる可能性はあるだろうとの事だった。だが、雪人はあっさりと辰巳の姓を名乗るとそう言ったのだ。 「引き継ぐべきことも、相続もほぼ済ませた。それに、辰巳にならなければ養子縁組など意味がないじゃないか。俺はお前の財産などに興味はない」 「そりゃあそうだがな…」 「お前が俺の事を色々と慮ってくれるのは嬉しいが、俺はそれよりもお前が辰巳の姓を名乗っていいと言ってくれたことの方が余程嬉しい。それに付随する不都合の処理など些末なものだ」  かく言う雪人は、すべての手続その他をその日のうちに弁護士や各方面に既に依頼済みである。その手際の良さと行動の素早さたるや、匡成が呆れるほどだった。  ごそりと躰を引き上げて、肩口に頭を乗せた雪人が匡成に囁く。 「それとも、お前は後悔してるのか…?」  伏し目がちに言う雪人の唇が震えていた。 「俺から言い出して、なんで俺が後悔するよ」 「ならもう心配してくれなくていい。俺は…、幸せだから」  照れたように俯く雪人の頬に朱が挿すのを見て、匡成は自分が如何に無駄な事に気を回していたのかと苦笑する。ゆるりと頭を撫でながら匡成が髪にキスを落とせば、雪人はさらに顔を赤くした。 「お前が幸せだってんなら、それでいい」 「う…ん…」

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