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◇ ◆ ◇
匡成と雪人が縁組を済ませてから二年ほど経ったある日。匡成の携帯が鳴ったのは、仕事で付き合いのある企業の社長数人とのゴルフの最中の事だった。
取り出した携帯の液晶に『真崎』という文字を見て眉根を寄せる。微かに嫌な予感が胸をよぎった。手に持っていたゴルフクラブを控えていたキャディに渡してボタンを押せば、落ち着いた声が耳に流れ込んだ。
『お仕事中に大変申し訳ございません。真崎です』
「どうした」
『雪人様が倒れられまして…』
「あ?」
現状、意識が戻らないという真崎の言葉に、匡成の表情が険しいものになる。軽く片手をあげて集団から少し離れた匡成は、真崎を問い詰めた。
「医者は?」
『はい。急性心筋梗塞との事です。発症から病院への搬送が早かったので後遺症はそう重くはないと予想されますが、出来ればすぐにお戻り頂けないでしょうか…』
「わかった」
控えめな口調で告げる真崎にそう返事をすれば、既にヘリを向かわせていると馬鹿丁寧に告げられて苦笑が漏れる。『助かる』と、そう告げて電話を切った匡成は、事情を告げてその場を後にした。
それから三十分もしないうちに到着したヘリに乗り込んだ匡成は、一時間後には雪人の搬送された病院へと到着していた。
すべての手配は真崎がしていたらしく、到着した匡成が親である事を告げると医師は驚いた顔を見せたが丁寧に雪人の容態について説明した。
雪人の部屋は予想通りホテルの一室とさして変わらない特別室で、期待を裏切らない雪人の待遇に匡成は思わず笑ってしまう。病室によくある無機質なベッドとは違い、普通の家庭などにあるそれとあまり変わりのない寝台。酸素吸入器を着けられてベッドに横たわる雪人は一見ただ寝ているようで、今はそう顔色も悪くはなかった。
眠る雪人に近づいて一度だけ髪を撫でた匡成がソファに腰を下ろすと、真崎がすぐさまコーヒーを差し出してくる。
「悪いな」
「いえ。こちらこそお仕事中にお呼び立てしてしまって申し訳ございません」
丁寧に頭を下げる真崎との付き合いもかれこれ長い匡成である。雪人の私設秘書の中でも、真崎は抜きん出た信頼を得ているのは明らかだった。匡成も、真崎の事は信用している。
コーヒーを一口飲んで、匡成が落ち着いたころを見計らい真崎が口を開く。
「書類上は辰巳の名前になっていますが、表向きは須藤の名で対応するように病院の方には伝えてあります。病院関係者は匡成様との関係も心得ておりますので問題はないと存じますが、一応ご承知おきください」
「ああ、悪いな」
「いえ。それと、今夜ですが、こちらに泊まる事も可能ですが如何致しましょうか」
真崎の言葉に、匡成は雪人へとちらりと視線を遣った後に応えた。
「あー…いいや、今日はマンションに戻る。何かあったら連絡してくれ」
「かしこまりました。それでは今夜はわたくしが付き添います。車を手配させていただきますので、戻られるときはお申しつけください」
控えるように部屋の片隅に静かに佇む真崎をチラリと見遣れば、丁寧に一礼して部屋を出ていった。
ふぅ…と小さく息を吐いてベッドの上の雪人を見れば、大事に至らず良かったと心底思う匡成だ。
電話で真崎が話した通り、後遺症はそう重くないと予想されると医師からも告げられている。ただし、それは目が覚めてみないとどちらにせよ分からない話だった。それ以前に、目を覚ますのかどうかさえ不安である。急性心筋梗塞は、発症から四十八時間が一番致死率が高い。まだ、気を抜けるような段階ではないのだ。
このままずっと雪人が目を覚まさずにいたのなら、自分はどうしたものかと匡成はふと考えかけてやめた。代わりに立ち上がると、ベッドの端に腰掛ける。
「雪人。いつまでも寝てんじゃねぇよ…」
ゆっくりと髪を撫でながら呟く匡成の声は、いつもより優しかった。
マンションの前に着けられた車を降りる際、何か変化があったら時間を問わず必ず連絡を入れるよう依頼した匡成の元に、雪人の意識が戻ったと真崎からの連絡が入ったのは深夜の事だ。
酒を飲む気にもなれずぼんやりと天井を見上げていただけの匡成は、これから車を回すという真崎の申し出を断った。通話を切ったその指で設楽の番号を呼び出す。
「車回せ」
『はい』
ただ一言、そう告げて電話を切る。ジャケットを羽織り匡成がエントランスへと降りれば、既に設楽が待機していた。ドアが閉まると同時に車が滑り出す。マンションから病院までは、車で十分ほどの距離だった。
「目を覚まされましたか」
「ああ」
「良かったです」
信号待ちで停車した車内で静かに交わされる声は穏やかだ。
匡成が病院から戻った時からずっとマンションの地下駐車場に待機していた設楽に、不満の色は一切ない。ほっとしたような表情の匡成をバックミラー越しに一度だけ見遣り、設楽もまた表情を緩めた。
深夜という事もあって車通りの少ない道をスムーズに抜けて病院へと戻った匡成を、真崎が出迎える。
「お待ちしておりました、匡成様」
「遅くまで悪いな。夜が明けてからの付き添いは俺がするから、明日は休んでくれて構わねぇよ」
「ありがとうございます。それではもし手続き等でご不便がありましたらご一報ください。本宅よりはわたくしの家の方が近いので、そちらで待機しております」
「ああ、助かる」
夜間専用の通用口を入り、独特の匂いを纏う廊下を抜ける。エレベーターから降りた匡成の姿に、ナースステーションに詰めている看護士が頭を下げた。
病室の中は、僅かな間接照明だけが照らしている。音をたてないように部屋へと入った匡成の耳に、微かに掠れた雪人の声が流れ込んだ。
「まさ…なり…?」
「ああ? 起きてたのかお前」
「会いたかった…」
「阿呆。病人は大人しく寝てろ」
呆れたように言いながらも匡成はベッドのすぐ横まで進むと、さっきと同じように端に腰掛けて雪人の頭を撫でた。嬉しそうに微笑む雪人に苦笑する。
「暢気に笑ってる場合じゃねぇだろう。ほら、ついててやるからまだ寝てろ」
「匡成は? 寝ないのか…?」
口許に被せられたプラスチックを曇らせながら、心配そうに眉根を寄せた雪人が言う。匡成はあっさりと雪人の躰を持ち上げて少しだけ横にずらすと、空いたスペースに躰を横たえてしまった。
どうやら添い寝をしてくれるつもりの匡成に、雪人は嬉しそうに微笑んだ。
「ほら寝ろ」
「匡成…」
寝ろといいながら、自分がさっさと目を閉じてしまう匡成である。すぐ隣に匡成の熱を感じて安心した雪人もまた、静かに目を閉じた。
翌朝。早い時間にベッドを抜け出した匡成がソファで横になっていると、静かなノックの音が聞こえた。躰を起こしてベッドを見れば、まだ雪人は眠っていて、匡成はドアへと歩み寄る。
扉を開けた先に立っていたのは、甲斐と隼人だった。
「辰巳さん…」
「おう、見舞いか」
「はい。父は…」
甲斐と隼人を部屋の中へと招き入れ、匡成はソファに戻る。
「一応意識は戻った。今はただ寝てるだけだ」
「そうですか…。昨日は、顔も出さずにすみませんでした」
「構わねぇよ。雪人の我儘でお前が忙しくなっちまったんだ、文句もねぇだろ」
部屋に備えつけの小さなキッチンで勝手にコーヒーを入れ始める隼人を横目に、匡成と甲斐が話していれば、僅かに雪人が身じろぐ。思わず口をつぐむ甲斐の姿が微笑ましかった。
「これから仕事か?」
「はい。午前中の便でニューヨークに飛ぶので、その前にと思いまして」
「忙しそうで何よりだが、無理はすんなよ?」
「はい。ありがとうございます。こんな時に仕事で申し訳ありませんが、父をお願いします」
一応、甲斐も隼人も匡成と雪人の関係は知っている。それでも律義に頭を下げる甲斐に苦笑を漏らしていれば、目の前にコーヒーの入ったカップを差し出された。隼人だ。
「すまねぇな」
「いえ」
丁寧に目礼して甲斐の隣に佇む隼人は、どうやら座る気はないらしい。その様子を物珍し気に匡成が見ていれば、甲斐の視線が動いた。おや? と、そう思う間もなく、隼人が腰を下ろす。
こんな姿を見ると、随分と躾が行き届いているものだと感心してしまう匡成だ。
やがて目を覚ました雪人に煙草を吸ってくるとそう告げて、匡成は病室を出た。最上階から階段で屋上へと上がれば、朝の清々しい空気が全身を包む。
大きな伸びをひとつして、匡成は煙草に火を点けた。
雪人の倒れた原因は、ストレスだろうかと、そう思う。食事の栄養バランスなどは専属の料理人も、栄養士まで雪人の家には居るので言わずもがな。匡成のように煙草を吸う訳でも、肥満体型でもない雪人が心筋梗塞など、それ以外に理由が見当たらない。
何か無理をさせていただろうかと匡成が考えるのも当然の事だった。
籍を入れて二年。付き合い始めてから五年だ。その間、雪人には相当自分に合わせさせてきた自覚が匡成にはある。元々の価値観の違いや、生活習慣もまったくといっていいくらい違う二人だ。表向きは雪人の我儘に合わせる形で匡成が越したが、それ以外の生活の様々なところで雪人に我慢をさせていたのではないか。
ふぅ…と、煙を吐き出す匡成のそれは、溜息に近かった。
灰皿に短くなった煙草を落とし込んで、匡成は二本目を咥える。匡成のように煙草も酒もやれば、生活習慣や栄養バランスなど気にしたこともないような人間がこうして元気に動いていて、雪人のようにしっかりとした生活を心掛けている者が病気になる。
考えると病気などと言うのはただの運のようなものなんじゃないかと思えてくる匡成だ。
―――因果なもんだな…。
前妻を家業のいざこざで亡くしている匡成は、自分は疫病神なんじゃないかなどと不意に莫迦な考えに捕らわれそうになる。本人がぴんぴんしているというのに周囲の、それも連れ合いに倒れられるとそう思ってしまうのもまあ、仕方のない事なのかもしれなかったが。
匡成はまだ長い煙草を灰皿で揉み消して踵を返した。馬鹿らしい考えに捉われている暇があるのなら、雪人のそばに居てやった方が余程有意義だとそう思ったから。
病室へと戻った匡成は、そろそろ空港へ向かうという甲斐と隼人をその場で見送った。
「匡成…」
甘えるような雪人の声に振り返る。
「どうした」
「その…近くに居て欲しい…」
「くくっ、倒れて気弱になってるんじゃねぇよ」
揶揄うような口調で言いながらも匡成はベッドの端に腰を下ろすと、点滴に繋がれていない方の雪人の手をそっと握ってやる。
「倒れるほど何を我慢してたんだお前は」
「我慢というか…、元々…狭心症の気はあったんだ…。黙っていてすまない…」
「阿呆。倒れられる方が心臓に悪いだろうが」
阿呆などと罵りながらも、匡成の手はゆっくりと雪人の頭を撫でていた。揶揄うような口調で問いかける。
「もうちっと甘やかしてやればよかったか?」
「充分…甘やかされてると…思ってたんだが…どうやら俺は…思ったより欲深かったらしい…」
「まったくだ。……お前が無事でよかったよ、雪人」
酸素吸入器を着けられていて唇にキス出来ない代わりに、匡成は雪人の額へとその唇を落とした。僅かに朱が挿した頬に、小さく笑う。
「あまり心拍数あげんなよ? 医者が飛んでくる」
「そうなったらお前のせいだ…」
「ははっ、いい加減慣れろよお前。俺が甘やかしたのが原因でぽっくり逝っちまったら、それこそシャレにならねぇからな」
「これくらいで不整脈になどなるか…バカ……もっと甘やかせ…」
「ったく、お前にゃ敵わねぇな。なぁ雪人よ」
呆れたように笑いながら、匡成は再び額に口付ける。思ったよりも元気そうな雪人の姿に安心しながら、時間が許す限りは一緒に居てやろうと思う匡成だ。
程なくして姿を見せた医師は雪人に、落ち着いたら内科及び循環器、呼吸器の検査を薦めた。つまりは生活習慣病の検査を受けろと、そういう事である。
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