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医師が居なくなった後、経過も良好なおかげか吸入器を外された雪人はゆったりとした動作で頭を掻いた。
「俺も年だな…」
「ま、否定はしねぇよ」
くつくつと可笑しそうに笑う匡成をじろりと睨み、雪人は溜息を吐く。
「こういう事になると、本当に実感するな…」
「まぁな。せっかくだからこの機会に全部診てもらえ」
時間はたっぷりあると、そう言って匡成は雪人の頬を撫でた。僅かに残る吸入器のゴムの跡を指先でむにむにと押していれば、困ったような笑みを浮かべてされるがままだった雪人がふと思い立ったように口を開く。
「そうだ、どうせならお前も一緒に検査を受ければいい匡成」
「ああ?」
「それが良い。お前に倒れられたら俺までまた倒れかねないからな」
言うが早いか、匡成の返事も聞かずに雪人はさっさとナースコールを押してしまった。
「お前…っ」
「仕事は俺から一意に代わるように連絡してやろう。それで文句はないな?」
雪人の言う一意(かずおき)というのは今年三十五になる匡成の息子である。もちろん匡成の息子も二人の事は知っていて、たまに雪人を弟と呼んで揶揄ってくるような男だ。
すぐさま呼び出しに応じてやってきた看護士に、匡成も一緒に検診を受けたい旨を告げる雪人である。
「かしこまりました須藤様。それでは事務の方に伝えて、後程必要な書類をお持ちいたします」
「よろしく頼むよ。それと、ベッドをもう一台頼めるかな」
「早急に手配いたします」
あっという間にベッドの上から看護士に申し付ける雪人は、昨日倒れたとは思えないほどの上機嫌振りだった。
看護士の出ていったドアを見つめ、匡成が大きな溜息を吐く。
「雪人ぉ…」
「俺だってお前が心配なんだ…」
「だからってなぁ、普通人間ドックなんぞ予約が必要なもんだろうが」
「それなら心配はない。医局長は昔からの知り合いだし、事務局長もゴルフ仲間だ」
そんな話に匡成が呆れかえっていれば、ノックの音とともにスーツの男が一人入ってきた。その後ろに車椅子を押した看護士の姿がある。ベッドを搬入するので一旦移動して欲しいとの申し出だった。
どうやら主治医の許可も出ているところを見れば、思ったよりも雪人の容態は安定しているらしいことに呆れながらも安心する匡成である。こうなってしまったなら雪人の言う事を聞いてやるかと、腹を括るしかなかった。
雪人の我儘…否、提案を受け入れ検診を受けた匡成は、すべての検査が終わってもなお、まだ病室に足止めされていた。もちろん雪人のせいである。『結果が出るまでは安心できない』と雪人は駄々をこねたのだ。
幸いな事にどこにも異常はなく、頗る健康体だと匡成が医師からの太鼓判を押されたのは一週間後の事だった。
片や雪人は、安定期に入ったことでカテーテル治療を受けた上にその他諸々の検査結果が出るまでにはまだ時間がかかるという事で、未だベッドの上である。とは言えど経過は良好で、あと数日で退院出来るだろうと言われたことは救いだろうか。
「だから言っただろうが」
それ見た事かと匡成が片方のベッドの上で胡坐をかいて言えば、雪人は些か悲しげな顔をする。それは何も匡成が健康体である事が嫌なのではない。一緒に居られる口実がなくなってしまったからだった。
それくらいの事は言わずとも分かる匡成が、苦笑を漏らしたことは言うまでもない。寝台を降りた匡成が雪人の横たわるベッドに腰掛ける。
「そう拗ねんなよ。一応、お前のおかげで仕事は一意ひとりでどうにかなってるからな」
「なら…まだ一緒に居てくれるのか?」
「病人ほったらかしてどっか行く訳ねぇだろうが」
雪人の頭を甘やかすように撫でて、匡成が笑う。だがしかし、いつまでも病院に泊まり込んでいる訳にもいくまいと、そう思う匡成である。いくら特別室で、いくら家族だと言っても、限度というものがある。
「朝には来てやるから大人しくしてろよ?」
「ッ!!」
匡成の言葉に、一瞬にして雪人の表情が変わる。途端にしおしおと萎れたようにベッドに沈み込んでそっぽを向いてしまう雪人だ。
倒れて心細いという度を越えて、増々『匡成と一緒に居たい病』を進行させた雪人である。
「うう…寂しくて心臓が痛い…」
「阿呆。冗談でも言ってんじゃねぇ」
「退院まで一緒に居て欲しいというのも駄目なのか…?」
「家帰っても一緒だろうが」
ごそりと、振り向く雪人の顔が僅かに緩む。
「もう少し早く帰ってきてくれ…」
「その分午前中居てやってんだろう」
そう。匡成の家業は基本的に朝が遅く夜も遅い。
「お前、それでストレス溜め込んでんじゃねぇだろうな…」
何度先に寝ていろと言っても、雪人は起きて匡成を待っている。そして朝は仕事をしていた時とほぼ変わらぬ時間に目覚めるのだ。
黙ったままの雪人に、匡成は思わず額に手をやって天井を仰いだ。
考えてみれば道理ではある。匡成のようにそれが当たり前のサイクルになっていて、朝ゆっくり寝ているのならまだしも、雪人は朝も早いのだ。睡眠不足になるのは当然の事だった。しかも、そこそこの年齢でもある。
「匡成…」
「この馬鹿が」
「そんなに怒る事はないだろう…」
「怒ってんじゃねぇよ、呆れてんだ阿呆」
バツが悪そうに掛布を引き上げて顔を隠す雪人に、匡成が苦笑を漏らす。
「お前な、ガキじゃねぇんだから分かんだろう」
「だから…もう少し早く…」
「これでも早く帰ってんだよタコ」
「うぅ…っ」
そう、匡成は雪人の家に越してからこちら、なるべく早く帰るようにしている。独り身の時の匡成の帰宅時間は、深夜どころかむしろ早朝だった。それを、雪人は知らない。
布団の中から寂しそうに見上げてくる雪人の頭を、匡成の手がポンポンと叩く。
「頼むから先に寝てろよお前…」
心なしか気弱な声で言う匡成である。
「頼むから…倒れるまで無理すんな。な?」
「だって…その…嫁というのは旦那の帰りを家で待っているのが仕事だろう…?」
「ぶっは!! …お前っ…待てコラ雪人…っく、…くっそ…ッッ」
盛大に吹いた匡成は、腹を抱えて笑いを堪えるのに必死になる。が、もちろん雪人はと言えば純粋に真面目な話をしている訳で。
「ッ!! 人が真面目に考えてるのにお前という奴は…!」
「いや待て…っ、くくっ…てめぇが阿呆な事ぬかすからだろうが…っ馬鹿」
「何が阿呆だって言うんだ!!」
「分かった分かった。俺が悪かったからそう興奮すんな…」
どうどう…と、雪人を宥める匡成の顔はだが笑っていて。雪人はふんっ…と、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
こうなってしまうともう匡成は雪人の機嫌を取るしかない訳で…。拗ねた恋人を後ろから抱き締める。
「怒んなって雪人」
「誰のせいだと…っ」
「頼むから落ち着け。お前まだ本調子じゃねぇだろ…」
フーフーと毛を逆立てる猫のような雪人に苦笑を漏らしつつ、匡成は優しく髪を撫でる。
「あのなぁ雪人。嫁ったって俺みてぇな家業でそんな事してたらどうなっかなんて、今のお前見りゃあ分かんだろ? 俺としちゃあな、嫁に無理さして待ってられるより、ぐっすり寝てる嫁の寝顔見る方が幸せなんだがよ」
「ぅ…」
「嫁だっつぅなら、旦那に心配かけさせんなよ」
「ぅぅ…」
腕の中で小さく呻く雪人を、匡成はぎゅっと抱き締める。確かに娶ってやるとは言ったものの、それはただの言葉のアヤというやつで、まさか雪人が本当に嫁のように振舞おうとしているとは思いもよらなかった匡成だ。まったく、どこまで純粋な男なのかと思ってしまう。
「俺はお前が可愛いよ、雪人」
「っ…」
「だから倒れるような無理はすんな。心配するだろぅが」
「……はい」
素直に返事をする雪人の髪を撫でながら、しかしまぁどこまでも真っ直ぐな男に好かれたものだと、そう思う匡成は些か面映ゆい。いや、頗るこそばゆい。
匡成とて雪人に惚れているにはいるのだが、だからと言って雪人を嫁のように思うかと聞かれたら答えはノーだ。そもそも雪人は男である。それに、雪人の思う”嫁”と、匡成の知っている”嫁という生き物”は、多分きっと全くの別物だろう。
―――亭主の帰りを待ってるのが仕事…か。……有り得ねぇな。
思わず茜を思い出してしまって、苦笑しか出てこない匡成だ。茜は一度たりとて匡成の帰りを無理に起きて待っていた事などない。だからと言って、匡成は茜を嫁として駄目な女だと思った事など一度もなかった。
匡成が苦笑を漏らしていれば、ゴソリと雪人が寝返りを打って見上げてくる。
「ひとつだけ、我儘を…言ってもいいか…?」
「あん?」
「出来れば…日が変わる時間くらいに…メールでもいいから連絡が欲しい…。そしたら、遅くなる時は大人しく寝るから…」
雪人の言いたい事はもちろん理解できたし、我儘だとも思わない匡成だ。だが、困ってしまった。果たして日付が変わる時間までに、その日の予定が読めるだろうかと思案する。
飽きたと思えば身も蓋もなく帰ると言える立場ではあるのだが、だからと言って毎回そう言っていたら回らないのが仕事というものだ。珍しく考え込む匡成である。
これを言った相手が雪人でなければ、匡成は容赦なく面倒だと言って切って捨てたところだろう。そう思えば随分と甘くなったものだと匡成自身思う。否、ただ惚れているだけかと自覚する。
ふぅ…と、小さく息を吐いて匡成は雪人の額に口付けた。
「ったく、またお前に倒れられても困っからな」
「匡成…」
「その代わり、言ったからにはちゃんと寝ろ。分かったな?」
「っ…お前こそ、忘れたら怒るからな…」
雪人に真正面から見つめられて、これはもしや嵌められたのでは…と、匡成が勘ぐった事は言うまでもない。すっかり忘れていたが、そもそも雪人にとって駆け引きなどは朝飯前なのである。
ビシッと、雪人の額を匡成は指で弾いた。
「痛いじゃないか」
「ああ? 人の事手玉に取りやがってそれくらい我慢しろ阿呆」
「何の事だか…」
勘ぐり過ぎて渋い顔をする匡成が可笑しくて、雪人は思わず笑ってしまう。堪えながら誤魔化そうとしたものの、それはどうやら逆効果だったらしい。
「顔が笑ってんだよ」
相変わらず渋面を作る匡成へと腕を伸ばし、雪人は胸に顔を埋めた。
「買いかぶり過ぎだ匡成…。忙しい時は…無理しなくていいから…」
「どうだか。…そういう我儘はもっと早く言え」
「うん…ありがとう…」
胸に埋めている頭をゆるく撫でられて、雪人は幸せそうに微笑んだ。
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