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◇ ◆ ◇
多少のトラブルはあれど、概ね平和に時は流れていた。雪人の不調が再発することもなく、二人は仲良く五十五という歳を迎えていた。そして運命の日は着々と近づいていたのである。
そう、その電話は確かに、匡成と雪人、二人の絆を試す運命の足音。
その日、匡成は若い衆からもたらされた一本の電話で辰巳の本宅へと出向いた。何やら助けを求めている女が来ているというのだ。
そんなものは一意に行かせろと、そう言いたいところではあったが、残念ながら匡成の一人息子は現在、男と一緒に世界一周の船旅に出ていて不在である。
車が到着すると同時に門扉が開く。久し振りの帰宅という事も相まって、玄関の前にはズラリと若い衆たちが並んでいた。同じく須藤の家でも出迎えられることがある匡成は、その人種の明らかな違いに苦笑を漏らす。
強面でドスの利いた挨拶をする辰巳の若い衆と、礼儀正しく馬鹿丁寧な須藤のメイドや使用人とでは、雲泥の差である。
ともあれ車を降りた匡成は、客を通してあるという和室へと真っ直ぐ向かう。襖を開ければ、背を向けて座っていた女が振り向いた。
年のころは一意と同じくらいだろうか。どこか見覚えのあるその女を、匡成は確かに知っている。が、思い出せない。年だろうかとそんな事を思っていれば、女が口を開いた。
「あー…、良かった匡成さん! お久し振りです! 雪乃(ゆきの)です、松井雪乃」
「ああ、道理で…」
「ふふっ、老けててわかんなかった?」
「そりゃあお互い様だ」
上座に回り込んで座椅子に腰を下ろした匡成は、控えようとする設楽を視線だけで追い出した。
雪乃と名乗った女は、匡成の息子、一意の同級生である。確か結婚して苗字が変わったはずだが、松井と名乗ったからには離婚でもしたのだろうと、大方の見当がつく。
「何年ぶりだ」
「もう二十年とか? 匡成さん相変わらずかっこいいんだもんなー」
「世事は要らねぇよ。…それで何だ、相談があるとかうちの若ぇのに言っただろう」
「あっ、そうなんですよ! うちのバカ息子がちょっと岬先輩のところと揉めちゃって…」
心底困ったように雪乃が言うのも道理で、岬(みさき)というのは匡成の家とはご同業である。つまりは極道だ。
しかし極道と事を構える息子とは、雪乃も随分と苦労しているらしい。苦笑を漏らした匡成は、取り敢えずの経緯を聞いてやる事にした。
雪乃の息子は、名を一哉(かずや)と言うらしい。年は十七。たまたま喧嘩を吹っ掛けられた相手が岬の息のかかった相手で、返り討ちにしたら出てきた相手が岬の若いのだった。一哉はそれと知らずに殴り飛ばしたという訳だ。
「ははっ、随分威勢のいい息子じゃねぇか」
「笑い事じゃないですって! 慰謝料とか言ってバカみたいな額吹っ掛けられてホントもう参ってるんですよー…。一意に頼もうと思ったら居ないし…」
「ありゃあ今旅行中だかんな。当分帰ってこねぇよ」
テーブルに突っ伏していた雪乃が不意に姿勢を正した。
「急に来てこんな事…、匡成さんにはただの迷惑だって事は分かってるんですけど…、岬先輩のところと話を付けて頂けませんか…。旦那と別れちゃったし、家にまで来られて本当に怖くて…」
「そうは言うが雪乃よ、どうせ今回どうにかなったって、息子がそんなんじゃまた同じ事すんじゃねぇのか」
「それは…はい…」
やはり無理かと項垂れる雪乃に、匡成が笑う。
「まぁそんな落ち込むんじゃねぇよ。岬んとこの若いのに話付けてやんのは簡単だがな、そう何度も揉め事起こされちゃ、俺も助けてやれねぇんだ」
「分かります…。あたしがちゃんと躾できるなら…って事ですよね…」
それっきり黙りこくってしまった雪乃に、匡成は苦笑を漏らした。匡成はただ事実を話しているだけなのだが、どうやら雪乃には少々荷が重いらしい。それだけ一哉という息子が手に負えないほど喧嘩っ早いのだとしたら、それはそれで面白い子供だと思う匡成だ。
「おい雪乃。お前その一哉ってガキ連れてこいよ」
「え…」
「手に負えねぇからそんな凹んでんだろう?」
「情けない話ですけど……はい…」
まあ、十七にもなれば、ちょっとヤンチャな息子なら女親では手に余るだろうと匡成は思う。
匡成とて一応親で、しかも息子の一意は口が悪いのはもちろん、喧嘩っ早くすぐに手が出る。否、そんな時代もあった。
「十七ならそろそろ分別もつくだろぅよ。ついでに説教してやっから連れてこい」
「嘘…! いやでもホント今あいつ反抗期で…匡成さんに手ぇ上げたりしたら取り返しつかないです…」
「阿呆か。反抗期だろうが何だろうが知った事じゃねぇよ。暴れられるもんなら暴れてみりゃあいい。一度痛い目みりゃ大人しくなんだろ」
雪乃の心配などどこ吹く風か。煙草を咥えた匡成は、一哉に大人しく説教をするつもりなどハナからない。喧嘩っ早いクソガキの相手は、息子で慣れているのだ。
年をとろうが匡成はまだ現役なのである。十七やそこらのガキに大人しく殴られてやるつもりなどなかった。
平日で学校が終わってからと、そう思っていた匡成はだが、早々に一哉という少年が結構な反抗期真っ最中である事を知った。雪乃の電話での呼び出しに、即座に反応したのだ。要は、学校になど行っていない。挙句、匡成の煽り文句に反発して今から行くと、そう言って電話を切った事は言うまでもなかった。
座敷でガクリと項垂れる雪乃の頭を、匡成は慰めるようにぽんぽんと叩いてやる。
「まぁそう凹むな雪乃。お前の育て方が悪い訳じゃねぇよ」
「匡成さんー…」
「情けねぇ声出すんじゃねぇよ阿呆」
「だってぇー…匡成さん優しすぎて…泣きそう…」
本当に泣きかねない声音の雪乃に苦笑を漏らし、匡成は廊下に控えている設楽を呼んだ。一哉の特徴を雪乃に話させて、とりあえず出迎えてやれと。
そうこうしていればノコノコとやってきた一哉は、雪乃に似た随分と可愛らしい顔をしていた。が、脱色した髪は色素が抜け落ち、片耳だけに幾つも連なったピアスが随分と目を引く。もちろん制服など着崩していて、どう見ても品行方正とは言えないだろう。
物珍し気に日本家屋を見回しながら設楽の後をついてきた一哉は、襖の開いた先に母親の姿を認め、次いで匡成を見て鼻を鳴らす。
「辰巳って聞いたから何となくそうかなって思ったけど、やっぱオフクロ、ヤクザのコレなん?」
座敷に入るなり嘲笑うように言いながら、小指を立ててみせる一哉である。そのさまが、匡成には何とも可愛らしいのだが、雪乃にとってはまあ、冗談では済まないのが息子というもので。
「いい加減にしてよね!? 匡成さんに迷惑かかるような事言わないで!」
「おっかねー…。図星さされたからって怒んなよ」
「あのね! 本当なら匡成さんはあたしやあんたみたいなのに構ってられるほど暇な人じゃないの! 勘違いしないで恥ずかしい」
顔を真っ赤にして言う雪乃は、実のところかなり昔に匡成に告白してきたことがある。さすがに息子の同級生で、しかも当時未成年だった雪乃を、匡成が適度にあしらった事は言うまでもないのだが。
そんな事を思わず思い出してしまって苦笑が漏れる匡成である。雪乃が顔を赤くするのも致し方がない。
「ははっ、面白れぇガキだな。男と女と見りゃイロってか? まあ、ガキからすりゃあ、ママをとられる一大事だわなぁ」
「あぁん!? 煽ってんじゃねぇぞクソジジイ」
「ちょっ! いい加減にしなさいよ一哉!」
「まぁまぁいいじゃねぇか雪乃、煽ってんのは確かだからよ。そうだな…設楽」
匡成がそう声を荒げる事もなく名を呼べば、静かに襖が開いて設楽が顔を覗かせる。雪乃を連れて少し出ているように言えば、設楽はその場で立ち上がった。
「そう言うこった。雪乃、お前ちょっと席外してろ」
「えっ、でも…」
「まあ、その代わり、ちっとばかし坊主が怪我しても文句は言うなよ?」
「それは…そうなった時はたぶん…一哉が悪いって分かってますから…」
一哉がもし手をあげた時は、無事では済まないとそう言う匡成に、俯く雪乃はそれでも迷っているようだった。だが、匡成から手をあげるようなことはないと、雪乃はきちんと理解している。
その上、雪乃からはこれ以上迷惑をかけたくないという気持ちが、匡成にはひしひしと伝わっていた。
「だったらそれでいいだろ。預けてけよ。な?」
「はい…。……よろしくお願いします」
深々と頭を下げて立ち上がる雪乃を見れば、随分と大人になったものだとそう思う匡成だ。むしろ一意などより子供を持つ分余程大人である。
雪乃が出ていき、閉まった襖を見つめている一哉に匡成は『座れ』と、そう言った。
「あぁ? 何でテメェの言う事聞かなきゃならねぇんだよジジイ」
「ったく威勢のいいガキだなこりゃ」
呆れたように言いながら匡成が咥え煙草で立ち上がれば、一哉の口からは低い声が漏れる。
「やんのかよ」
「ははっ、言ったろう。俺から殴ったりはしねぇよ。だがな…」
何気なく近づいた匡成は、言いながら無造作に伸ばした手で一哉の頭を引っ掴むと容赦なく畳へと叩きつけた。痛みに呻く一哉が睨む目の前で、ニッと口角を持ち上げる。
「俺ぁ気が短ぇからよ。逆らわれんのは嫌いなんだ。座れっつったら大人しく座れやクソガキ」
「ざっけんじゃねぇ…離せよクソジジイッ!」
「ああ? 逃げたきゃ手前でどうにかしろよ、男だろぅ?」
ジタバタと畳の上で暴れる一哉の躰は細っこい。身長は百七十五センチの匡成とそう変わりはしないのだが、まだ未成熟な躰を押さえつけるのは容易な事だった。
暴れもがく一哉の背中に膝を乗せて匡成が笑う。
「親にケツ拭わせるしか能のねぇガキが粋がってんじゃねぇよ」
「ッ…誰が!!」
「手前だろうが」
匡成は短くなった煙草を摘み上げると、一哉の鼻先にある畳で揉み消した。
「っ……」
「お前、一哉っつったか?」
「だから何だよ…っ」
一哉は言った瞬間、ゴキリと、鈍い音を立てて肩の関節が外される。もちろん、外したのは匡成だ。
「あぁああああッ!!」
「返事は”はい”だ」
「痛ってぇんだよクソジジイッ」
「分かってねぇなぁ…」
再び鈍い音を響かせて、もう片方の肩の関節を軽々と外す匡成に容赦などない。一哉がどれだけ泣き叫ぼうとも、匡成が呼ばない限り誰も助けには来ないのだ。
匡成の膝の下で必死に呼吸を整えている一哉は目に涙を溜め、額には大量の汗が浮いていた。
「なあ一哉、返事は覚えたか? ん?」
「っ…クソが…」
「馬鹿だなお前」
さらりと言った匡成は、今度は一哉の脚を掴み上げる。片足の膝裏にもう片方の足首を挟んでゆっくりと荷重をかけていった。
一哉の口から迸る悲鳴に、うるさそうに顔を顰める匡成である。
「俺ぁ素直な返事が聞きてぇって言ってんだよ。悲鳴上げんじゃねぇ」
「あ゛あ゛…ッ、はっ…なし…っ」
「ああ? 返事は覚えたかって聞いてんだ。手前の要求は聞いてねぇよ」
言いながらも匡成にジリジリと荷重をかけられ、堪えきれない痛みに一哉の目からはボロボロと涙が零れ落ちていた。肩を外されていて抵抗する事も出来ず、絶え間なく呻き声の漏れる唇を一哉は戦慄かせる。
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