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 一哉の姿を冷めた目で見下ろしながら匡成は僅かに足を戻してやると、静かに口を開いた。 「少しは素直になりたくなったか?」 「ぁ…う゛…はっ…い…」 「いいか一哉、手前には手前の言い分があんのは分かんだがな、結局ケツ拭うのは雪乃だろうよ。岬んとこと話付けてくれって頼みに来た雪乃に手前なんつったんだ、あ?」 「ずみ…ませ…っ、でした…」  ずるずると鼻を啜りながら謝る一哉を尻に敷いたまま、匡成が煙草を点ける。 「俺に謝る事じゃねぇだろぅが阿呆」 「あ゛い…」 「二度と親に舐めた口利くんじゃねぇぞ」 「あ゛…い…」  すっかり素直になった一哉に苦笑を漏らし、匡成は背中から降りてやる。折り曲げられていた足を投げ出して俯せのまま動かない一哉の額を指で弾いた。 「いつまでも情けねぇツラしてんじゃねぇよお前」 「う…ごけ…な…」 「ああ、肩外れてんのか…」  自分で外しておいて忘れていた匡成は、一哉の横に膝をついた。 「ちっとばかし歯ぁ食いしばっとけ」 「え…ああぁああッ!! あ゛…ッ」  再び鈍い音をさせて、匡成は関節を戻した。一哉の悲鳴に顔を顰める。 「うるせぇな、これくらいで騒ぐんじゃねぇよ」 「あ゛…う゛…」  呆れたように言いながらも、この程度で素直になるような子供でよかったと内心思う匡成は、自分の息子にはもっと酷い仕打ちをしている。さすがに人様の息子との区別くらいはつけているのだが、まぁ一哉にとってそれが救いになるかと言われれば、答えはノーだった。  ともあれ匡成の手でもう片方の肩もしっかりと戻された一哉は、ずびずびと鼻を啜りながら畳の上に正座をして項垂れている訳である。そんな息子の姿に、呼び戻された設楽とともに戻ってきた雪乃は困ったような顔をして匡成を見た。 「匡成さん…?」 「おう、まあ座れ」 「あっ、はい…」  上座の座椅子にどっかりと腰を下ろしたまま煙草を吸う匡成に戸惑いつつ、雪乃は一哉の隣に素直に座った。 「おい一哉、お前雪乃に言う事あんだろぅが」 「ぅっ……はい…」 「え? あたし?」  雪乃の視線が、ニヤニヤと面白そうに笑う匡成と項垂れる一哉の間を行ったり来たりする。 「その…迷惑かけてすみませんでした…。あと…生意気な事言って…ごめんなさぃ…」 「は? え? 嘘…!」 「おい雪乃、嘘はねぇだろ。頭下げてんだからよ」 「いやだって匡成さ…、なんで!?」  思わず一哉の額に手を伸ばす雪乃である。 「あんた熱でもあんの?」 「ねぇよ…って、触んなババア! …あ…っ」 「くくっ、謝れタコ」 「っ…ごめんなさい!」  匡成と一哉の遣り取りに、雪乃はへなへなと両手をついた。パタパタと小さな音をたてて畳に雫が落ちる。 「げっ、なんでオフクロが泣くんだよ…っ」 「あんたが馬鹿だからでしょ、馬鹿ぁー…」 「馬鹿馬鹿言うんじゃねぇよ! つかマジ勘弁しろよ…」  オタオタと慌てる一哉を微笑ましく眺め、匡成は煙草を消して立ち上がった。 「さて、そんじゃあ岬んとこと話付けてやっか。…お前も、いつまでもメソメソしてんじゃねぇよ雪乃」  雪乃の頭をぽんぽんと叩いて匡成は襖を開けると、廊下に控えていた設楽に車を出すように告げた。面倒ごとはさっさと片付けるに限る。 「匡成さん…っ」 「あん? 雪乃、お前もう帰っていいぞ。あとは話付けといてやるからよ」 「えっ、でも…あたし何も…」 「阿呆。お前から見返りとれる訳がねぇだろう。一意に笑われんのなんぞ俺は御免だぞ。だいたい大した話じゃねぇしな」  それでもなお食い下がる雪乃に、匡成は今度飯でも付き合えと、そう言って部屋を後にした。  その日の夜。約束通りメールを入れるまでもなく早い時間に帰宅した匡成を、雪人が嬉しそうに出迎える。元より自由業の匡成にとって、その日何をするかはある程度の自由が利く。雪乃の件を片付け、今日はもういいかと、そう思った匡成だった。 「おかえり」 「ああ」 「風呂と食事はどうする?」 「腹が減ったな。お前はもう食ったのか?」  いくら早いといえど、夜も遅い時間ではある。大抵雪人の食事の時間は決まっていて、普段であればもう済ませている筈だ。案の定、先に済ませたと答えが返ってきて、匡成は雪人の頭を撫でる。  廊下を進み、食事を頼んでくると言う雪人を一階に残し、匡成は階段を上がった。匡成と雪人の部屋は、二階にある。  部屋に戻ってネクタイを緩めていれば、さほど時間をおかずに雪人が部屋に入ってきた。匡成の脱いだ服をランドリーシュートへと放り込むのは、雪人の日課である。 「今日は早かったんだな」 「ああ」 「いつもこれくらいの時間ならいいのに…」 「馬鹿言うなよ。倒産する」  倒産すると、そう冗談めかして言う匡成を雪人は後ろから抱き締めた。 「困ったことがあったら、少しくらいは頼ってほしい…」 「阿呆。心配しなくても一意に跡目譲ったら嫌ってほど頼ってやるよ」 「本当か?」  嬉しそうに言いながら、雪人は匡成の首筋をかぷかぷと噛んだ。 「おう。毎日服用意しろよ。あと毎晩背中流させてやる」 「それじゃあ今と変わらないじゃないか…」 「馬鹿だなお前、俺が毎日家に居てみろ。面倒くさくて嫌になるぞ。俺は何もしねぇからな」 「匡成が居てくれるだけでいい…」  そもそも雪人とて何もしないという点では匡成と大して変わらないのだが、そんな事はこの二人には関係がなかった。匡成には若い衆が、雪人にはメイドや使用人がいる生活が当たり前なのである。他人に世話を焼かせる事に、何の躊躇いもなければ疑問すら抱かないという点においてのみ、この二人の生活スタイルは一致していた。  雪人がするようになったことと言えば、部屋の風呂に湯を張るくらいの事である。もちろん、掃除は昼間のうちにメイドがしている事は言うまでもない。  部屋へと運ばれた食事を匡成が食べる間、雪人は隣で本を読んだ。それが終われば、部屋の風呂に二人で入る。  匡成の背中を流しながら、雪人は嬉しそうに微笑む。こうして一緒に風呂に入れる時間に匡成が帰ってくることは、なかなかないのだ。 「匡成…好きだ…」 「くくっ、何だよ唐突に」  可笑しそうに笑う匡成を、雪人は拗ねたように睨んだ。 「お前は言ってくれないのか?」 「そういう言葉は、大事な時にしか言わねぇもんだ」 「俺は言って欲しい…」  早く言えと催促する雪人に笑いながら、匡成は耳元に寄せた唇で小さく囁いた。 「お前が可愛いよ、雪人」 「ッ!! お前は狡いっ」 「ははっ、顔赤くしてんじゃねぇかよ」  誤魔化しだと拗ねておきながらも顔を真っ赤にする雪人は、匡成にとって事実可愛い。我儘を言われようとも匡成が突っぱねない相手は雪人だけなのだが、それを雪人自身が知らないのだから仕方のない話である。  匡成自身言うように、匡成は雪人のように素直に気持ちを伝えるような男ではなかった。代わりに。 「ベッドの上でたっぷり愛情注いでやってんだろう。何が不満だ?」  愛情などという言葉を吐くことには躊躇いがない匡成である。 「っ…それじゃあ躰だけみたいに聞こえるだろう」 「躰”も”だ、阿呆が」  ビシッと雪人の額を指で弾いて風呂から上がった匡成は、部屋に備えつけられた冷蔵庫からビールを取り出して一人で飲み始める。 「グラスを使えといつも言ってるのに!」 「ああ? 缶ビールなんぞ缶から飲むもんだって言ってんだろ」  また始まったとばかりに顔を顰める匡成である。どうにもこういうところは雪人と合わないのだ。 「ガサツな男は女に嫌われるぞ」 「細けぇ男のがめんどくせぇよ」  言い合って睨み合う二人は、だが結局匡成が雪人を抱き寄せて話がつかないままかれこれ数年が経っている。  缶ビールを片手に口付ける匡成を、雪人が拗ねたように押し返す。 「酒臭い!」 「なら口にはしねぇよ」  そう言う匡成にぱくりと耳を咥え込まれて、雪人は思わず声をあげる。 「ふぅ…んっ」 「お前、耳弱いよな」 「あっ…ぅ、やぁ…」  あっという間にトロンと目を潤ませる雪人は、数分もかからずに自ら匡成にしがみ付いた。 「んっ…まさ…なりぃ…」 「あん? 酒臭いのは嫌なんだろ?」 「嫌だ…」 「じゃあすんな」 「嫌ぁ…」  駄々をこねる雪人の口の中へと、匡成は口に含んだビールを流し込む。唇の端から胸元へと滴り落ちる液体に構うことなく幾度か飲ませた後で、匡成は思う存分雪人の口腔を貪るのだ。 「ぅん…っ、ぁっ…あふ」 「ガサツな男は嫌いかよ?」 「ぅぅ……匡成は好きぃ…」 「いい子だ。愛してやる」  こうして二人の夜は過ぎていく。  この後にやってくるであろう運命の日に、この時の二人はまだ気付いていなかった。

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