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 翌日。事務所のソファに座り、煙草を吸いながら匡成は耳に流れ込む低い恫喝を聞くともなく聞いていた。声の主は、匡成の側近である設楽のものだ。  百九十センチを超える長身の設楽に見下ろされ、ビクビクと身を竦ませている男の職業は金融屋である。と言っても、もちろんまっとうな金貸しである筈もなく、違法な金利で金を貸す闇金だ。 「払えねぇじゃねぇだろう。払わせんのが仕事だろぅが馬鹿かテメェは」 「ヒッ、申し訳ありませんッ」  どうやら下手を打ったらしく、事務所に入れる筈の金が用意出来ていないと男は謝罪をしに来ているのだが。もちろん、すみませんでは片のつかない家業である。設楽に吊り上げられた男の口からは悲鳴にも似た声が漏れた。それを、匡成はうんざりした様子で眺めやる。 「吊り上げてやんなよ、怯えてんじゃねぇか」 「はい」  ドサリと音をたてて男の躰が床に落ちる。すぃ…と音もなく横に退いた設楽の前で、落ちた痛みに呻きながらもその場で正座をした男は、匡成の方を向いて恥も外聞もなく額を床に擦りつけた。 「申し訳ありませんッ、月末までには必ずッ!!」 「お前それ先月も言ってなかったか?」  ヒュッ…と、男の喉から情けない音が鳴るのを匡成の耳はしっかりと捉えていた。溜息を吐きながら設楽を見れば、ゆっくりとその足が持ち上がる。 「アガッ、アッ…申し訳…ありませ…ッ」  設楽の足の下で苦しそうに声を漏らす男に苦笑を漏らし、匡成が口を開こうとした時だった。無機質な電子音が、部屋に響き渡る。 「あ?」  設楽の視線が匡成へと向いて、匡成は懐から携帯電話を引っ張り出した。液晶を確認することもなく通話ボタンを押して耳にあてる。 「取り込み中だ、後にしろ」 『え…っ、あっ、ごめんなさい…っ』  不機嫌そうに言った後で、耳に流れ込んだ女の声に匡成は奇妙な顔をした。思わず耳から離した電話を見る。 「親父?」  シッシッと、犬でも追い払うような仕草で手を振りながら、匡成は耳へと戻した電話に向かって話す。 「このままちょっと待ってろ」 『え? あ、はい…』  追い払われてもどうしたらいいのだと困惑の表情を浮かべる設楽である。 「設楽、お前ちっと他でやれ」 「回収は」 「来月頭だ」  匡成が言えば、心得たとばかりに頷いた設楽が男の襟首をつかんで部屋から引きずり出していく。それを見届けて、匡成は再び電話を耳元へと戻した。 「あー…、いきなりで悪かったな雪乃」 『あっ、いえっ! こっちこそ忙しい時にごめんなさい』 「構わねぇんだがよ。それでどうした?」 『え? あ、あの…昨日…明日なら大丈夫だって匡成さん言ってたから…。忙しそうならまた今度でいいです…』  傷ついたような、悲しそうな雪乃の声に首を傾げ、そして匡成は思い出した。昨日、先日の礼がしたいと言った雪乃を断った事を。すっかり忘れていた事に気付いた匡成の耳に、不安そうな雪乃の声が届く。 『あの…匡成さん…? もしかして…迷惑でしたか…?』 「あー…いや、そうじゃねぇんだ。ちっと取り込んでて忘れててよ」 『よかったぁ』  嬉しそうな雪乃の声に、匡成は時間と場所を確認して電話を切った。  テーブルの上に放り出した携帯を見れば苦笑が漏れる匡成は、雪乃との約束をすっかり忘れ去っていた事実にひとり頭を掻く。ついでに雪人の事を思い出してしまって思わず顔が緩んだ。  やがてノックの音が聞こえ、『入れ』とそう短く返せば設楽が戻ってくる。匡成の言う通り、来月の頭に二か月分の金を持ってこいと伝え、男は了承して去って行ったとの報告に呆れたような溜息を吐いた。 「耳揃えて持ってくると思うか?」 「無理でしょうね」 「ははっ、即答かよ」  煙草を抜き出して咥えれば、設楽の手がすかさず火を差し出す。大きな躰をいくらか屈め、両手で差し出されたそれを、匡成は無言で受け取った。  一度深く吸い込んで、ゆっくりと紫煙を吐き出す。それはまるで、溜息のようだ。 「誰か使えそうなの探しとけ」 「心得ました」  さして感情の籠らぬ声で返事をした設楽を、匡成はそのまま放置する。ソファに陣取ってノートパソコンを開く設楽をチラリと見遣り、匡成は携帯電話を取り上げた。飯は要らないが早めに帰ると、そう雪人にメールを送信して小さく息を吐く。  昨日の雪人の態度を見れば、正直なところ再婚は難しいかもしれないと、匡成はそう思う。それならばもう一人養子をとるかと。しかしどこから養子をとったものか…。  ―――そうそう隼人みてぇに捨てられたガキがいるとも思えねぇしな…。  孤児院や児童保護施設などは幾らでもあるが、匡成のような家業の人間に子供を引き渡すような施設はない。さてどうしたものかと思案して、匡成はふっ…と自嘲気味に笑った。何から何まで、ガラにもない事をしていると思う。どこまで自分は雪人に甘いのだろうか…と。  人間変われば変わるものだと、そう思う匡成は、実際自分自身の変わりように驚きを隠せないでいる。  告白された晩に、匡成は雪人を抱いた。不思議と罪悪感もなければ相手が男だという戸惑いもなかった。それどころかその辺の女よりも色香を感じてしまって、年甲斐もなく夢中になったのを覚えている。  子供の頃から親同士の付き合いがあり、たまに顔を合わせていた雪人の印象は、”すまし顔のお坊ちゃん”だ。それが十七のある晩を境に変化したのは言うまでもない。  だからと言って匡成が男に目覚めたのかといえば、そんな事もなかった。相変わらず女が好きだし、雪人以外の男を抱くなどまっぴら御免である。男に色香を感じた事もない。  偶然にも十七の時と同じ場所で再会を果たしたあの日、雪人からの電話で『会いたい』と言われた匡成は、何故だかそわそわしてしまったのだ。  それは、匡成にとって初めて抱く感情だった。こそばゆいというか、照れるというか、浮かれる反面素っ気なくあしらってしまいたくなるような、そんな気持ち。  正直な話、こいつが手に入るなら他の女などどうでもいいと思った。嫁を娶ろうとも女遊びをやめなかった匡成が、だ。しかも何故か雪人の我儘を受け入れてしまう自分に匡成自身が驚きを隠せずにいる。  結局自分は雪人に惚れているのだろうと、匡成はあっさりとそれを受け入れた訳だが、それは随分と重傷だったと昨日再確認してしまった。他人の涙に自分自身に怒りを覚えたのは初めてだったのだ。  まあ、それを表に出すかと言われれば、出さないのが匡成という男なのだが。  何事もなく仕事を終え、匡成は設楽がハンドルを握る車で雪乃との待ち合わせの店へと向かった。  雪乃が指定してきた店は、小料理屋と言った趣のある小ぢんまりとした店だ。入口のすぐ横に、ひっそりと掲げられた木の板に書かれた『松雪』という店の名前を見て匡成は、驚いたように眉をあげる。  出迎えた女将に名前を告げれば、奥にある座敷へと案内される。さして広くはないが小綺麗な座敷に、雪乃は入口に背を向けて座っていた。 「待たせたか?」 「匡成さん!」  時間には遅れていない筈だが、腕時計に視線を落としながら匡成が声をかければ雪乃が振り返る。 「いえ、あたしも今来たばかりですから」 「ならいいが」  上座を勧める雪乃に、躊躇いなく座敷の奥へと進んだ匡成は座布団の上に腰を下ろした。 「いい店だな」 「本当ですか? そう言ってもらえると嬉しいな」  嬉しいと、その言葉通りにこにこと笑いながら、雪乃は母親の店なのだと匡成に説明した。 「お前は継いでやらねぇのか?」 「一応継ぎますよ。妹と一緒にですけど」  照れくさそうに雪乃がはにかめば、静かに襖の外から声がかかる。雪乃の母親だという女将と妹、それに父親なのか前掛けをかけたままの板前が一緒に顔を出して丁寧に先日の礼を言われてしまい、匡成は困ったように笑った。改めて、しかも家族そろって礼をされるような事をした覚えなどないのだ。  店を雪乃に任せたのは間違いだったかと、ついつい思ってしまう匡成の困った顔に、雪乃はあっさりと注文を告げて三人を追い出した。 「なんか…大袈裟になっちゃってごめんなさい…」 「構わねぇよ。まあ、慣れちゃいねぇがな」  一哉と揉めた岬の若いのが家にまで来ると言っていた雪乃の言葉を思い出せば、きっとこの店も嫌がらせか何かをされたのだろうと予想はつく匡成だ。道理で一意に助けを求めに来たのも頷ける。 「でも、本当にありがとうございました。匡成さんが助けてくれなかったら今頃どうなってたか…」 「馬鹿だなお前、堅気なんだからおまわりでも呼べばいいだけだろぅが」 「呼んだんですよ…一応…。でも、こういう店ですし…あまり取り合ってくれなくて…」  それに、先に手を出したのは向こうだとしても、一哉が怪我を負わせたことに変わりはなかった。そう言う雪乃に、匡成は僅かに肩を竦めただけだ。  やがて運ばれてきた料理を肴にゆっくりと酒を飲んでいれば、雪乃が膝でにじり寄ってくる。 「お酌してもいいですか?」 「阿呆、そんな事しなくていい」 「えー…? せっかく匡成さんの隣に居られると思ったのにー」  拗ねたように言いながら照れ笑いをする雪乃の頭を、匡成はぽんぽんと叩く。一意と同い年の雪乃を、まあどことなく娘のように匡成が感じてしまうのは致し方のない事だった。 「せっかくだから一杯くらいは注がせてください」  と、そう言う雪乃の手から酒を注がれて匡成が笑う。 「くくっ、自分のガキに酌されてるみてぇだな」 「ええー? なにそれ酷い。もういい加減子供扱いしないでくださいよ」 「そりゃあ無理だろ雪乃よ」  息子の同級生を子供扱いするなと言われても、なかなか難しいと、匡成はそう言った。だが。 「でも…あたしは匡成さんが…好きです…」  俯きがちに言う雪乃に、思わず匡成は手に持ったお猪口を取り落としそうになる。ついでに上目遣いで『駄目ですか…?』と、そういう雪乃の顔が冗談でない事だけは匡成にも理解できた。  参った。と、そう思う。  まさか雪乃がそんな事を言い出すなどとは思ってもいなかった匡成だ。一度告白されてはいても随分と昔の話だったし、断った以上二度目はないと、そう思い込んでいた。  ポリポリと耳の後ろを掻きながら、匡成が口を開く。 「悪いな雪乃、お前の事は嫌いじゃねぇんだがよ…」 「付き合ってる人…いるんだ…」 「まあ、付き合ってるっつーか…まぁ付き合ってんのか…」  どことなく照れくさくて顰め面で言う匡成に、雪乃が噴き出す。 「ちょっと匡成さんっ、めっちゃ顔赤い」 「うるせぇよ」 「あー…でも本気なんだぁ…。再婚しないんですか?」 「出来ねぇんだよ」 「え?」  きょとんとした顔で見つめてくる雪乃に、しまったと、そう思う匡成である。案の定。 「再婚できないって…なんで? だって匡成さん、その人の事好きなんでしょ?」 「そうなんだが…そうじゃねぇんだよ…。再婚する気はあっても、相手はそいつじゃねぇ」 「どういう事かわかんないですそれ…」  ぐいぐいと袖を引っ張る雪乃に揺さぶられながら、匡成は思わず額に手をやった。こういう時の雪乃は、押しが強くて困る。元より一意がどれだけ鬱陶しそうにしていようとも、まったく態度を変えることなく近くにいた雪乃だった。 「その人は好きだけど再婚できない?」 「ああ」 「でも再婚する気はあるって事? 他の人と?」 「まあ、そうなるのか…」 「え? じゃああたしと再婚して!」  ぐいっとテーブルに乗り出す雪乃を、匡成は呆れた顔で見る。 「お前、自分が何言ってんのか分かってんのか?」 「だって好きな人はいるけど、その人とは結婚できなくて、でも再婚する気はあって、その相手は誰でもいいんでしょ?」 「誰でもって訳じゃねぇよ。一意の跡取りが居なくちゃ意味がねぇ」 「え? じゃあ一哉でいいじゃん」  さらりと恐ろしい事を言う女だと、そう思う匡成だ。だがその瞬間、匡成は分かってしまった。真っ直ぐ向けられる雪乃の目には、迷いなど一切なかったから。 「雪乃よ、一意の跡継ぐってどういう事だか分かって言ってんのか?」 「そりゃもちろん。匡成さんの家の事は知ってますよ」 「ならそれはいいとしてもだ、再婚ったって俺は相手のそばにいてやるつもりはねぇんだよ」  匡成の言葉は事実である。そもそも匡成は、書類上だけの嫁を娶って跡継ぎをどうにかしようとそう思っていたくらいだ。衣食住が保証されるうえ、極道とはいえ息子の将来まで安泰となれば、いくらでも相手はいるだろうとそう思う。  だが、それはあくまでも全く無関係な他人の話であって、雪乃のように一意と繋がりがあるような相手を対象とはしていなかった匡成だ。まして、雪乃は匡成が好きだと言う。中途半端に優しくする方が酷ではないのか。諦めてくれはしないかと、無駄を承知で言葉を重ねる。 「なあ雪乃、お前何考えてんだ。再婚する気になりゃあいくらでも相手はいんだろう」 「そうかもしれないですけど…誰でもいいって言うくらいならあたしでもいいじゃないですか。少しでも匡成さんのそばに居られるなら今よりマシかなって思いますよ」 「だからよ、それで辛くなんのはお前じゃねぇのかって言ってんだ」  匡成が呆れたように言えば、雪乃が屈託のない笑顔を見せる。 「実はあたし、再婚する気なかったんですよねー。一哉もあんなだし、きっと相手いないだろうなって思ってたし。でも、匡成さんと会ってからアイツちょっと素直になったし、たまにこうして一緒にご飯食べるくらいの我儘なら許してくれるでしょ?」  あまりにも明るく言う雪乃がどこか茜に似ている気がして、匡成の方が奇妙な顔になる。女というのは、こうも男の我儘を許せるものなのだろうかと。ともすれば愛情なんてものは最初からないのじゃないかと思えるほどだ。 「俺にはお前の考えてっ事がさっぱり分かんねぇよ」 「ええー? 言葉の通りですって。今のあたしって匡成さんと何の関係もない訳じゃないですか。でも、少しでも繋がりが出来るんだったら、それだけであたしは嬉しいし満足なんですよね。むしろ一意の跡取りが匡成さんの目当てなんだとしたら、その条件にも当てはまるのに他の女に取られる方が嫌って言うか…?」  強かとでも言えばいいのだろうかと苦悩する匡成は、相変わらず奇妙な顔のままだった。瓢箪から駒とでも言えばいいのか。雪乃の申し出は、正直言えば匡成にとってこれ以上にない好条件ではある。

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