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滑り出した車の後部座席で匡成はゆったりと目を閉じた。それよりも先ずは、どう雪人に伝えたものかとそう思う匡成である。
上手い考えも浮かばないまま家へと辿り着いた匡成は、出迎えに出てきた雪人とともに玄関をくぐった。
「おかえり匡成」
「ああ」
雪人が何かを聞きたそうにしているのは明白で、苦笑が漏れる匡成だ。部屋に入ると同時に、匡成は雪人の肩を抱き寄せた。
「なあ雪人。お前に話しておきてぇことがある」
「……会ってきたんだろう?」
「まぁな」
何を言わずとも雪人が予感を感じてしまうのは、これまで匡成の周りに女の気配がなかったからだ。それが崩れ去ったのだから、雪人からすれば当然気にはなる。
雪人は、匡成が自分と付き合うのをきっかけに携帯の番号を変えた事を知っていた。
「お前が聞きてぇような話じゃねぇのは分かってんだがよ…」
ソファに腰を下ろしてふぅ…と、小さく息を吐く匡成の隣に雪人が座る。
「分かってる。でも大丈夫だ…。昨日、お前がちゃんと言ってくれたから…」
「ったく、お前はすぐに早とちりすっからな」
ぽんぽんと頭を叩くように撫でながら、匡成は雪人の肩を抱き寄せた。引き寄せられるままにこてんと倒れ込む雪人をそのまま抱き締める。
ゆっくりと雪乃との事を話し、匡成が再婚する旨を伝えれば、分かっていると言いながらも僅かに肩を震わせる雪人だ。
「相手は…それで納得してるのか…?」
「あん? そりゃあお前、俺だって聞きはしたがな。どうも俺には何考えてんのか分かんねぇってのが正直なところだ」
「らしくないな…。女の扱いには慣れてるだろう?」
些か悔しそうに言う雪人の額を指先で軽く弾き、匡成は苦笑する。
「あのなぁ雪人、女の扱いと気持ち汲んでやんのとは別だろぅが」
「俺はちゃんと相手の気持ちくらい考えて付き合ってたぞ」
「そりゃあお前はな?」
しばらくの間、無言で匡成を見ていた雪人の口が、あんぐりと開いていた。
「節操なし」
「うっせぇよ」
ふんっ…と鼻を鳴らした匡成は、だがむしろ当然のような顔をして返す。
「だいたいなぁ、お前は女になりてぇなんて本気で言うがよ、お前が女だったら今頃こうして隣にいやしねぇんだよ阿呆」
「自慢になるか!」
「あぁん? 男でよかっただろうが」
「っ…バカっ」
喉仏をわざわざ意識させるように匡成の指先がなぞり、雪人の眉間に僅かに皺が寄る。だが、雪人のその顔は真っ赤だった。
「なん…で…、急にそんな事…」
「いやな、今日雪乃と話してて気づいたからよ」
「はあ? 気づいた…って、だから何に…」
「だから気持ちまで汲んでやりてぇって思ったのはお前が初めてだったって事にだよ」
さらっと雪人が喜びそうな事を口走っておきながら、匡成に自覚はないらしい。これ以上ないほど顔を赤らめる雪人を見て、匡成は怪訝そうな顔をした。
「いつまで顔赤くしてんだお前」
「だっ…て…、お前が…そんな事を言うから…っ」
ついに耐えられなくなって、雪人は顔を隠すように匡成の胸にしがみ付いた。俯けた顔が、相変わらず熱い。
―――匡成が気を遣ってくれるのは…俺だけ…?
思わずそんな事を考えてしまって、増々顔があげられなく雪人である。
考えなくとも匡成のように他人に振り回されたり縛られたりするのを極端に嫌う男が、大人しく雪人の元へ帰ってきている時点で気付きそうなものなのだが。そのうえ、あっさりと籍まで入れてしまっている。それでもなお気付いていないのは、雪人くらいのものだった。
だがしかし、そんな雪人の思考はよくよく考えるにつれ、匡成の無神経さに対する怒りへと変わっていった。ゆっくりと視線をあげた先に、匡成の呆れたような顔がある。
「落ち着いたかよ?」
表情通り、呆れたような声音で問う匡成に、雪人は僅かに震える唇を開く。
「もしかして俺は…お前を買い被り過ぎていたかもしれない…」
「買い被り?」
「俺が思ってるよりもお前が節操なしだったって事だバカっ!! 気持ちも何も考えずお前は女に優しくしたり良く出来るな! 相手が可哀相だろう!!」
もの凄い剣幕の雪人に、匡成の躰が僅かに後退る。思わず肩を抱いていた手をあげてしまう匡成だ。
「待て待て雪人、落ち着けよお前…」
「道理で何の抵抗もなくあれだけの女をとっかえひっかえお前は…っ」
ギロリと睨まれて、匡成はポリポリと耳の後ろを人差し指で掻いた。その視線が、あてもなく宙を彷徨う。
雪人は雪人で、嬉しいには嬉しいのだがどうにも素直に喜べない事実に内心は戸惑いを隠せないでいる。いわばこれは、照れ隠しだ。
フーフーと全身の毛でも逆立てるような雪人の背に、やがて匡成はゆっくりと手を下ろした。
「本当にお前は…。女に優しくすっと拗ねるくせに、そういうところは怒んのかよ?」
「当たり前だろう! 俺と付き合う前の話だからな!!」
「あぁそうかよ…」
言葉にせずとも雪人の目が『この節操なし』と雄弁に語っていて、どうにも困ってしまう匡成である。
―――気付かなくていいところに気付くんだよなぁこいつは…。
内心困りつつ、口許に引き攣った笑いをこびりつかせる匡成は、ゆっくりと雪人の背を撫でた。『面倒臭い』と、一言で切って捨てられない辺りが既に重傷で、本人が一番困っている。
「なあ雪人。お前が嫌だって言わねぇ限りお前の元に帰って来てやるから、再婚させてくんねぇか」
匡成の言葉に、雪人は一瞬だけ固まった。そして、男としての匡成の立場というものに、雪人は気付いてしまう。
「それは…俺が断れる問題じゃないだろう。それに…、何だかお前は俺に帰ってくるなと…そう言わせたいように聞こえ…る…」
「ッ…」
息を詰めて言葉を失う匡成に、雪人もまた黙り込んだ。
もしかしたら本音はそうなのかとか、匡成はそうでなくとも、匡成の再婚相手の事を考えてやるなら自分から言い出してやった方がいいんじゃないかとか、そんな事がグルグルと雪人の頭の中を駆け巡っていた。
―――異質なのは…、俺の方なんだろうな…。
相手は女で。一般的に言うのなら、確実に異質なのは男の自分だという自覚は雪人にもある。不意にもの凄い罪悪感に苛まれてしまって、雪人はぎゅっとその目を閉じた。
『匡成が好き』という一言だけで、自分は匡成をこうして縛り付けている。それは、匡成自身をも困らせているのかもしれないという事実に、雪人は気付いてしまった。
―――このままで…、本当にいいのか…?
少しは女の気持ちも考えてやれと、そう言ったのは自分だ。それなのに、雪人自身が匡成のそれを妨げている。
再婚するというからには、きっと相手の女も匡成の事が好きなのだろうと思う。少なくとも、嫌いという事はないはずだった。
―――いや、匡成の事だからむしろ無理矢理というか…、気持ちなんて最初からない相手を選んでいるかもしれない…。
可能性というよりは願望に近い考えに、だが雪人は内心で頭を振った。有り得ない。もしそうだとしたら、匡成の性格ならそうとはっきり告げる筈だから。
考えだしたらキリがなくて、雪人は目を閉じたまま苦悩の表情を浮かべた。
匡成と雪人。二人が黙り込んでからどれくらいの時間そうしていたのだろうか。互いに思うところも言いたい事もある。だがその夜、少し一人で考えたいと、そう雪人は匡成に申し出た。
◇ ◇ ◇
匡成のために使用人に部屋を用意させ、一人きりになった雪人はバルコニーへと足を向けた。これまでも雪人は、考え事をするときは大抵ひとりバルコニーで過ごす。庭に植えられた樹木の香りが、心を落ち着かせてくれるからだ。それに、さやさやと静かに流れる夜風が肌に心地いい。
設えてあるガーデンチェアではなく、雪人は立ったままバルコニーの手すりに寄り掛かる。ぽつりと、誰も聞いていないだろう空間に雪人が囁いたのは自身への問いかけだった。
「このまま…匡成を縛り付けていていいのか…?」
良いはずがないと、頭では分かっている。だからといって簡単に手放せるほど、雪人の想いは軽くはなかった。まして匡成の気持ちを聞いてしまった後では、それに縋ってしまいたくなる。
匡成の再婚相手は、いったい何を考えているだろうか。匡成の事だから相手にもきちんと話はしているだろうし、実際、匡成が今の生活を変えるつもりがないのは相手も納得していると、匡成自身に聞かされている。
『お前が嫌だって言わねぇ限りお前の元に帰って来てやるから、再婚させてくんねぇか』
匡成の言葉は、いつでも雪人を迷わせる。
「俺の気持ち次第なのか? 大人なら…自分から手放せって…、お前はそう言うのか匡成…」
答えが返ってくるはずもない相手に雪人は問いかける。匡成を追い出したのは、雪人自身だ。それなのに、匡成の答えが聞きたくて堪らなくなる。
けれど、聞くのが怖いのだ。『そうだ』と、そう言われてしまったらそれこそ耐えられる自信がない。
その反面、雪人の中のもう一人の匡成は絶対に否定する。例え本心がそうだとしても、自分を傷つけたくないがために匡成が本心を口にする事はないだろうと、そう思う。匡成は、優しいから。
雪人は大きく夜気を吸い込むと、目を閉じてゆっくりと吐き出した。
男なのだから潔く身を引くべきか。そもそも自分はそれに耐えられるのか。なら罪悪感を抱えたまま、今後も匡成と付き合っていけるのか。匡成は、どう思っているのか。
様々な思いが雪人の頭の中をグルグルと回り続ける。
女ならよかったのに…と、結局そこに帰結してしまう思いは、どう足掻いても叶わないものだ。
匡成は女だったら今隣には居ないと、男でよかったとそう言うけれど、そんなものは男の雪人にとっては所詮仮定の話でしかなかった。
許されたいと、切に願う。
―――匡成の隣に、ただ居たいだけなのに…。
それでもなお、相手が女だというだけで雪人は苦しくて堪らなくなる。
男でも匡成の隣に居たいという欲と、男だから身を引くべきという矜持。どこまでいっても雪人に付き纏い苦しめるのは、”男である”という現実だった。
「………匡成…っ」
ずるずると手摺の横にしゃがみ込み、静かに涙を流しながら呼ぶ雪人の声は、その名の主に届くことなく一陣の風が攫っていった。
◇ ◇ ◇
雪人とともに生活する部屋と廊下を挟んだ向かいの部屋は、普段使っている部屋とさほど変わらない広さと設備を誇っていた。
部屋付きの浴室にはバスタブもあるのだが、匡成は湯を張るのも面倒でシャワーで躰を軽く流しただけだ。
ごろりと寝台に寝転がり、高い天井を見上げる。美しい文様の描かれた天井を、匡成は見るともなく見つめていた。
『何だかお前は俺に帰ってくるなと…そう言わせたいように聞こえ…る…』
雪人の言葉は、匡成にとって思いもよらぬものだった。そんなつもりはないと、すぐに否定をしてやれなかった自分に腹が立つ。
雪人と付き合い始めてからの自分は、どうにも上手くいかない事が多いと、そう思う。というより、随分と考えこむ事が増えた匡成だ。
それは当然の話で、雪人にも言ったように、匡成はこれまで相手の気持ちなど考えた事もなければ、その気持ちを汲んでやろうと思った事もない。それを考えるようになったのだから当たり前である。
来る者拒まず去る者追わず。それで何が悪いとも思っていなかったし、寄ってくる女は皆それを弁えていたように思う。
雪人と同じく親同士の代から付き合いのある友人、篠宮征悟(しのみやせいご)などからは『タツはそのうち女に刺される』などと言われる事もあるが、それはそれで面白いと思っていた匡成だ。刺される事が、ではない。刺せるものなら刺してみろと。
だが考えてみれば、征悟にはそういう一面を打ち明ける事はあっても、雪人に打ち明けた事はなかった。噂で耳に入っているだろうくらいの思いはあったが、女に対してどう思っているなどと言う話を、雪人とはしたことがない。
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