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第2話 幼馴染とまさかの婚姻

「これが「愛の巣」A307号室の見取り図です。玄関を上がって廊下をまっすぐいくと、こちらがキッチンとリビングダイニング。その先にあるのが、サンルームと、外へ続くバルコニーです。ドアを隔ててこちら側のスペースには、アスレチックルーム兼トレーニングルーム。それから、シャワー室とトイレがそれぞれ二つ。アルファの寝室と、ベータの寝室になります」  臣が婚姻同意書にサインをすると、「巣ごもりのしおり」とやらを渡され、「愛の巣」に入る前の心構えなどについて、ざっと「つがい機関」の担当者から説明を受けた。 「オメガの部屋は、ないんですか?」 「オメガはどちらかの寝室で眠ることになります。自室はございません。婚姻後、なるべくお相手と一緒に過ごし、絆を深めていただくためです」  上品ぶって言葉を濁しているが、要はたくさんセックスをして早いところ子供を作れ、という意味だろうと臣は理解した。日本でオメガに人権が与えられて、そろそろ百年。付与された人権の代わりに、少子化対策の一貫として打ち出された多産を奨励する法律により、臣たちオメガは珍重されると同時に、合法的にセックス三昧の日々を強要される事態になっていた。  社会が歪んでいるのは明らかだが、臣は、それなりにオメガである自分を諦めることで、順応しようとしていた。それに、義務教育期間にたっぷりと「婚姻は特別な運命の相手とするもの」だという考え方を刷り込まれ、学ばされている。その考えに全く抵抗がないといえば嘘になるが、運命の相手との初対面を、楽しみにしている自分がいることも、また事実だった。 「詳しいことでわからないことは、全部、適合者のアルファとベータたちが教えてくれます。どうぞ安心して、幸せな婚姻生活をお送りください」  担当者に満面の作り笑いで促され、臣は「愛の巣」A307号室へと向かったわけだったが、結婚への道は、想像していたよりずっと、険しく遠いものだった──。 *** 「臣ちゃん……? 臣ちゃん、どうしたの? 気分悪い?」  閉じられた玄関のドアを遠慮がちに叩く、心配そうで柔らかな声がする。  紅葉がアルファだと判明するなり、臣は紅葉の手を振り切り、思わず玄関のドアを閉めて、外に出てしまった。振り切られた紅葉は心細い声で、部屋の中から、外にいる臣の心配をしてくれている。が、臣にはそれすらも、悪夢としか思えなかった。 「どこか調子悪い? 大丈夫……? これ、開けるけど、いい……?」 「開けるな!」 「ええっ、でも、臣ちゃん……」  心細そうな紅葉の声が、「近所迷惑になっちゃうよ……」と困惑していた。体調のことを気遣われたが、そんなの全然、大丈夫だ。むしろ周期が安定して、今夜にも発情しそうだった。問題なのは、そこじゃない。 (──いい加減な判定しやがって、あの装置、ぶっ壊してやる……!)  相手があの泣き虫弱虫紅葉だったなんて、確率的に想定外だ。  臣は心の中で「装置」の不備を呪ったが、テロリストになる予定もなければ、心の中で密かに罵る以外に、発散方法がなかった。  果たして昔、虐めていた幼馴染に、オメガとしてどんな顔をして逢えというのだろう。悩んでいると、扉の外から深刻に沈んだ紅葉の声が聞こえてきた。 「それとも、俺みたいなのがアルファだったから、もしかして臣ちゃん、失望してる……?」 「──! んなわけあるか……っ!」  紅葉の言葉に、臣はカッときて思わずドアノブを回した。玄関のドアが開き、紅葉の泣きそうな顔を見た途端、うっかり立場を忘れて叱咤する。 「しゃきっとしろよ、お前アルファだろ! 俺は……っ、お前のつがいになるんだぞ!」  どんな泣き虫でも、弱虫でも、人間ひとつぐらい長所があるものだ。紅葉のそれは、とてもわかりにくいが、他人の痛みに敏感で、気遣いしすぎるぐらいに優しいところだった。鈍感で気前のいい臣とは正反対で、二人で遊んでいるときに、こっそり羨ましいと言われたこともある。臣は絶対に言葉には出さなかったが、その時だけは、紅葉の気持ちが、子供心に何となくわかってしまった。 「ちょっとびっくりしただけだ! 嫌だなんて思ってないし……! ただ……っ」  絶対に紅葉には言いたくなかったが、臣はそういう紅葉の繊細なところが、嫌いではなかった。ただ、自分自分が紅葉の立場だったら、こんな婚姻、到底、受け入れる気になれないだろう、とは思う。  臣が叱ると、紅葉は長い腕を伸ばしてきた。  一瞬後に、ぎゅっ、と抱きしめられる。  ふわりと日向の匂いがした。紅葉のフェロモンだ。匂いがいつも以上に濃い気がするのは、臣の側の問題で、発情期が間近に迫っている証拠だった。 「……やっぱり臣ちゃんは、俺のヒーローだ。俺、臣ちゃんとつがいになれて嬉しいよ」 「そう……かよ……」  つがいになる、というよりも、婚姻と言った方が正しい。その上、二週間はお試し期間だが、詳しく言葉を選別している余裕がなかった。紅葉には、三日前から「妻」となる臣のことがわかっていた。背中を支える逞しい腕が、その期待の大きさを物語っている。 (……やっぱり言動のタイミング、間違ったかもしれない)  臣は後先考えず、スパッと行動したがる自分の浅はかさを呪った。  こんなことになるならば、婚姻について、もっと色々、深く考えておくべきだったかもしれない。少なくとも知り合いや友人が適合者になる可能性については、もう少し慎重に検討すべきだった。婚姻相手が紅葉になるかもしれないという、心構えができているのといないのとでは、まるで違う。  しかし、決まってしまった婚姻を覆すことが不可能ならば、なるべく自分の矜持を保ったまま婚姻生活を終えたい、と思う臣だった。  それが、さらなる困難を伴うことだとは、臣自身、まだ自覚していなかった。

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